こういっては何ですが、それほど拝観すべきものもない神社ですが、
春日社の歴史を調べる上では是非一度は行く必要もあります。
今回はちょうどよい機会と、意を決して訪ねることにしました。
『古社記』が伝えるところによれば、
鹿島から神が奈良に到着された折に随行した中臣時風・秀行が
神に住まうところを訪ねたら、神が榊を投げその落ちたところに
住むようにとの託宣があり、その場所が平城左京八条二坊五坪の艮の角、
現在、この時風神社・辰市神社のあるところというわけです。
春日大社からは直線で約五キロほど、その距離感を知る上でも、
御蓋山のふもとから、あえて自転車で出かけました。
適当にその方角を指して出かけて近くまでは難なくたどり着きましたが、
肝心の神社がなかなか見つからず、何人かに尋ねてようやくたどり着け、
結局所要時間は1時間以上かかってしまいました。
やわな現代人と古代の人がその距離感が違うでしょうが、
いくら非常勤であっても、通勤するには余りにも遠すぎるというのは実感です。
大東さんも書いておられるように、この場所は春日の神領であり、
その管理を兼ねながら、辰市・大東家が住みつき、神社はその神領の
鎮守社であったのを家祖を宣揚するためにそういう伝承ができたと
考えるのが妥当かと思えます。
辰市神社の社殿は、『春日社記録』建久8年(1197)の条によれば、
春日大社末社の木宮社(紀伊社)の旧殿を譲与、
嘉禎2年(1236)の遷宮にも本社第二殿を拝領とあります。
天正年間に戦火で焼失し、現在の社殿は寛政10年(1798)の再建とのこと。
嘉禎2年と言えば、第23回の式年造替,建久8年は第21回の式年造替での
払下げかと思われます。
現在の住所は杏町ですが旧の辰市村です。
社殿は南面していて、その南、道を隔てて時風神社があります。
祭神は武甕槌命・経津主命 神宮(こうのみや)とも呼ばれます
時風神社の祭神は時風・秀行です。
こちらは東面して社殿があります。
現在は西九条町ですが、こちらも旧辰市村です。
社の向きは創建時と同じかどうかはわかりませんが、
御蓋山は方向は北東になりますから少しずれていますので、
向きは遠く故郷の鹿島を向いているのでしょうか。
そこから東へ50mほど離れて倭文神社が
あります。
こちらも向きは東面です。
「倭文神社」「しずりのやしろ」とか「ひずりのやしろ」と呼ばれていたようです。
鎮座地は西九条町二丁目14の2
こちらのご祭神は武羽槌雄命・経津主命・誉田別命
武羽槌雄命と言うのは、あまり聞きなれない神様ですが
『日本書紀』第9段の一書に
「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)またの名を
天香香背男(あまのかかせお)と曰う。
請う、先ず此の神を誅し、然る後に下りて葦原中國をはらわん」。
是の時に齋主(いわい)の神を齋之大人(いわいのうし)ともうす。」
記述がある。
これにより齋之大人=建葉槌命とみられ、齋主(祭祀)で征服したとあるので
上記の行為を齋主で行うことにより星神香香背男=天津甕星を征服したという説である。
このように、常陸の国に武御雷の神が来られた時反旗を翻した香香背男を
武御雷の代わりに討ったのが武羽槌雄命で、鹿島大神の先駆の武将とされ
武の神です。
武羽槌雄命は、天羽槌雄命と同名で織部の神で、倭文氏はその後裔であるとされ、
辰市郷に住んで神衣を織ったと伝えられています。
わたしはその伝承は後から付け加えられたもので、本来故郷である鹿島で
ともに祀られていたことから、春日の神領であるこの地に中臣氏の守り神として共に
祀らていると思います。
今回訪れてみて、この辰市の地が中臣氏の管理した春日の神領であり、
時風神社・辰市神社にまつわる伝承は、のちの世に、祖霊を顕彰する意味で
できたものという、大東氏の見解が妥当であると確信を強くしました。
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