「下高畑町にある大石である。これは十文字の入った境界石である。
さわると、きっとよくないことが起こる。
破石から東南は、藤原広嗣を祀った鏡神社が、南西には吉備塚、東北の方向にはこの清明塚があり、この破石が、その結界であるとする伝承もあります。
この破石に関して『続日本記』宝亀元年二月に次のような記載があります。
「西大寺東塔心礎破却す。その石の大きさは一丈四方余り、
厚さ九尺、東大寺の東、飯盛山にあった石である。
初め数千人で引き動かしたが、一日に数歩分しか進まず、
時に唸り声がした。
そこで人夫を増やして,九日かかってやっと運んだ。
それから削り刻んで、据え付けの基礎を築くことが完了した。
その時、男女の巫女の中に、ともすれば石の祟りがあるかもしれない
という者があった。
そこで柴を積んで石を焼き、三〇石余りの酒を注いで、
細かく砕いて道路に捨てた。
その後一ヶ月余りして、天皇が病気になった。
これを占ったところ、砕いた石の祟りであるというので、
すぐにまた拾って清らかな土地に置き、人馬が踏まないようにした。
今、寺内の東南隅にある数十片の砕石がそれである。」
この石を祀った神社が西大寺東門の前にある石落神社であると言います。
この記事を引き継ぐような形で「奈良坊目拙解」では、
「これが破石である。灌ぐに三十余斛の酒を以てし、その石を焼いた。時に清水寺の清泉を汲み酒を醸す、故に破石の清水と名付けた。
この辺りは造酒の地である。古老曰う、この破石清水の造酒は
奈良名酒の権輿(注、始まり)である。」
また東大寺山堺四至図には、飯守山に、この巨石が描かれています。
石落神社西大寺東塔跡
国立奈良文化財研究所の発掘で、現在西大寺に残る東塔跡基壇
の外側の地下に、一回り大きい八角形基壇の痕跡が見つかりました。
「西大寺資材流記帳」に塔は、「二基五重」と書かれ、
現存する基壇も五重塔のものです。
『日本霊異記』下巻第三六話に
「塔の層を減らし、寺の幡を倒して悪報を得た話」
として西大寺五重塔に関する説話があります。
時の右大臣藤原永手が法華寺の幡を倒させ、
西大寺の八角七重塔の計画を四角五重塔に切り詰めた罪により、
地獄に堕ちたというのです。
ここから、続日本記に言う東塔の心礎は、
当初の八角七重塔から取り替えられたもので、
これが破石でないかと思われます。
さらにこれらのことから、破石の誕生年がほぼ確定できます。
則ち藤原永手の没年である宝亀二年〈七七一〉が
破石の誕生した年となるはずです。
高畑に残る数々の伝承は、この破石を中心として展開します。
問題は、西大寺の東塔礎石が何故高畑まで運ばれたか?です。
専門家が見れば、西大寺の塔礎石の石と破石が同じ種類かどうかは
わかるかもしれませんが、残念ながら私にはその判断はつきません。
昔は基壇の上に自由に上がれたのですが、今日行ったら立ち入り禁止。
続日本紀と坊目拙解の間には1000年の開きがあります。
坊目拙解が何故、これを破石であると書いているのか、
根拠はわかりません。
破石町の名前は、鎌倉時代の記録には出ておらず、
江戸時代中期の記録に登場します。
鎌倉時代には破石はなかったのか?
破石めぐる吉備塚の話しも江戸時代よりは遡れません。
安倍清明は11世紀の人。謎が深まるばかりです。
先日、目医者で、手術を勧められました。
9月ごろのつもりで、病院に行たら、あれよあれよという間に
手術に決まりました。
眼が良くなる可能性は50%。
ほっておいたらいずれは見えなくなるし、薬物療法では治らない。
パソコンの画面を見るのが疲れるので、今書きかけの高畑の話を
取りあえず仕上げました。
何時かは本にしたいのですが、まだまだ分からないことが山積みです。
というわけで、しばらくこの問題はお預けです。
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