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高畑の伝承に出てくる吉備真備、玄昉、阿倍仲麻呂はすべて
奈良時代に実在した人物です。
それだけでなく相互に複雑に絡み合った因縁があり、
そういった人物に関わる伝承が残る場所がすべて高畑という限られた地域に
残っているのは不思議でもあり、それだけに偶然であるとは思えず、
高畑であることに深い意味があると思えます。
以下その係わりを簡単に書いておきます。

吉備真備、玄昉、阿倍仲麻呂、さらに藤原広嗣とその父である藤原宇合は、
霊亀二年〈716)に第九次遣唐使として入唐し共に唐で過ごしています。

宇合は養老二年〈718〉に帰国し常陸国守、
西海道節度使となり九州に赴任した時には式を整備します。
玄昉は唐にあって天子より三品に準じて紫の袈裟を賜い、
天平7年(735〉に経論5000余巻、諸仏像を齎し帰国。
玄昉はわが国でも紫の袈裟を施されます。

真備は
「経史を研覧して、衆芸に該渉せり。我が朝の学生の名を唐国に翻す者は、
ただ大臣及び朝衡の二人のみ」と賞せられ、
帰国に際しては、唐礼壱百参拾巻、太衍暦経一巻、太衍暦立成十二巻、
楽書要録十巻等大量の書籍を持って帰りました。

唐で書籍を集めた様子は、「得るところの錫賚にして、尽く文籍を市う」
と『旧唐書』東夷日本国条にも記されています。
二人は
同船にて共に在唐18年で帰国します。

おりしも、おそらく遣唐使が持ち帰ったと思われる疫瘡が
太宰府より瞬く間に全国に蔓延し、藤原四氏を始め政界の要人が
ことごとく病に倒れ、天平の廟堂は人材が枯渇し、
橘諸兄が右大臣に昇進し政権を掌握します。

この時参議は大野東人、巨勢奈弖麻呂、大伴牛養、県犬飼石次と、
藤原氏ではただ一人藤原豊成の五名となっていました。
そこでいわば留学帰りの気鋭の知識人である真備は
新帰朝の文人として天皇の寵を得ることとなります。

さらに玄昉は、聖武天皇の母である宮子の近くに仕える中宮亮であった
真備の紹介もあり、皇后宮に赴き、皇大夫人藤原宮子が天皇を産んでから
一度も息子聖武に逢えなかった気鬱の病で
「幽憂に沈み久しく人事を廃する」という心の病であった宮子を治癒します。
これによって玄昉は聖武天皇、光明皇后の厚い信頼を得
内道場に入り、宮廷における地位を確立します。

こうした状況に危機感を抱いたのが
一挙に四兄弟を失った藤原氏です。

中でも若い藤原式家の広嗣は猛烈に反発します。
『扶桑略記』延暦十六年〈七九七〉の条で、
玄昉が宮子と密通したとする流俗を記しており、
梅原猛氏は光明皇后との不義に触れています。
真偽は不明ですが、宮中の内道場に自由に出入りを許され、
天皇・皇后の寵愛をほしいままにした玄昉に対して誹謗中傷が
あったことは間違いありません。

おそらく若い広嗣の玄昉・真備排斥の発言に、
行き過ぎたものもあったと思われ、
その結果が太宰府への左遷となったと思われます。

左遷の理由として「広嗣は子供のころから凶悪で、
長じては偽りや姦計をなすようになった。
父の宇合も朝廷から除こうと願っていたが、できずにいたところ、
京で親族をそしり乱れるので、遠くにやって改心させようとした。」
と述べており、これが先の内容を指すのではないかと思われます。

太宰府にあった藤原広嗣は、(天平12年(740)八月
橘諸兄によって起用されていた真備と玄昉を追放すべき旨の
上表文提出します。
 
しかし、それを謀反とみなした聖武天皇は、
召喚の詔勅を出しますが、広嗣はそれに従わず
反乱の兵を起こします。
朝廷は一万七千人の兵を動員し大野東人を大将軍として
追討の軍を出します。

広嗣軍は板櫃河の戦いで敗れ、広嗣は値嘉嶋で捕らえられ
斬殺され乱は終息します。
その間、聖武天皇は突如都を離れ、その後都を恭仁京、
更には紫香楽へと、彷徨を繰り返します。

その理由については諸説ありますが、
藤原氏と橘諸兄ら皇親勢力との間の争いがあったと思われます。

こうした情勢の元、突然玄昉は天平17年〈745〉
具体的な理由は不明ながら、行基が大僧正になるのと時を同じくして
「沙門の行いにそむけり」と
,太宰府観世音寺へ左遷されます。
おそらく大仏造営に関して、玄昉、行基、そして聖武天皇との間に
齟齬が生じた結果と思われます。

その翌年観世音寺の落慶法要に臨んだ玄昉が急死します。

『続日本紀』天平一七年記で
「玄昉の筑紫派遣を左遷と記し、
同年十一月玄昉に与えられていた封戸と財物を没収しました。
天平十八年六月玄昉の死について、僧正に任じられた後、
内道場に自由に出入りし、天皇の派手な寵愛が目立ち、
次第に僧侶としての行いに背く行為が増え、時の人はこれを憎むようになった。

ここの至って左遷された場所で死んだものであり、
世間では藤原広嗣の霊によって殺されたものだ」と伝えています。

今昔物語によれば、広嗣が怨霊となり天平一七年(七四五)に、
太宰府観世音寺へ左遷されていた玄昉が、落慶法要に臨まんとする時、
天空より玄昉の体を巻き上げ引き裂き、奈良の地にその体を、
ばらまいたとしています。

頭が落ちたところが、高畑の頭塔であり、更に、
後に太宰府に赴任した吉備真備がその広嗣の怨霊を鎮め、
お祀りしたのが唐津の鏡神社で、
その御霊を移したのが高畑の鏡神社であると書かれおり、
「吉備真備は陰陽の道に極めたりける人にて、
陰陽の術でわが身を怖れなく固めた」と書かれています。

この話は「平家物語」「源平盛衰記」と言った物語にも取り上げられており、
平安時代末期には多くの人が知っていたことになります。

 

 

 まだ話は続きます。

天平勝宝五年(753)十一月末、参議藤原清河大使。
副使大伴古麻呂以下450名、四隻で、遣唐使が派遣されます。
その際に光明皇后が詠んだ歌

春日ニテ神之日、藤原太后御作歌一首。
即賜入唐大使藤原朝臣清河

大船に ()楫貫(かじしじぬ)き この吾子を 韓国(からくに)遣る(やる) (いは)へ 神たち

太子藤原朝臣清河(皇后の甥)歌一首

春日野に (いつ)く三諸の 梅の花 栄えてあり待て 還り来るまで
 
 真備もこの一団で
遣唐使となり、唐に渡っています。
その目的は、
一は鑑真和上の招聘であり、
二番目には阿倍仲麻呂を連れ戻すことでした。

この二度目の渡唐は左遷という説、真備自らが
政争を避けて身の安全を図るためとも言われています。

この時天平勝宝五年〈七五三〉帰国する仲麻呂を送別する宴席において
王維ら友人の前
詠んだとされる歌が
百人一首にも取り上げられている有名な歌

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも

この歌には、望郷の意味と、出立にあたって祈った春日の神に対する祈念。
更には、『東大寺要録』に記載のある春日にあった安倍氏神社に対する祈りと、
多くの意味が含まれていると思われます。

真備の乗った第二船は無事帰国できましたが、
残念ながら仲麻呂の乗った第一船は驩州(現在ベトナム北部)に漂着し、
その後長安に戻り、その後
仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、
結局、日本への帰国は叶えられることなく、
『旧唐書』によれば京師長安に留まること五十年、
上元〈760―63〉中に抜擢されて左散騎常侍・鎮南都護になったとされ、
宝亀
元年(770年に73歳の生涯を閉じています。
最後は潞州大都督(従二品)を贈られている

吉備真備がこの二度目の渡唐の際に、
二世紀末から十三世紀初めに描かれた絵巻物の『吉備大臣入唐絵巻』で、
唐において数々の難題を吹っ掛けられるが、鬼となった阿倍仲麻呂に助けられて、
これらをことごとくしり退けるという説話が描かれています。
しかしこの時、仲麻呂はまだ存命ですから、唐の朝廷の高官であった仲麻呂が、
何かと真備らを手助けしたことが、こういった話になったかと思われます。

このように真備、仲麻呂との因縁は絡み合っていますが、
更に真備と玄昉、広嗣の関わりは、玄昉が広嗣の怨霊のために死んだという話、
さらに、その怨霊を鎮めたのが真備であり、その怨霊を封じ込めたのが松浦明神、
それが移されたのが鏡神社。
その鏡神社は清水寺の鎮守社であり、清水寺は玄昉ゆかりの寺。

さらに清水寺は造東大寺司長官であった真備が玄昉の供養のために
手を貸して作らせた寺である可能性がり、すべての人物との因縁が
複雑に絡み合います。

 

 



 

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