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高畑の伝説の最後に、悲劇の皇女の話があります。


 
  比賣塚は古くから「高貴の姫君の墓」と語り伝えられていました。

1920年代には、比賣塚は国有となっていましたが、地元の有志の奔走によって奈良財務局から払い下げを受け、比賣塚の現形9坪を新薬師寺に寄進し、そこに神社を造営して神殿・祭祀を鏡神社の摂社として委任することとなりました。

1981年に十市皇女の命日である47日を新暦に換算した日である510日に鎮座奉祝祭が行われ、十市皇女を祀る比賣神社が誕生しました。


ただこの比賣塚には、もう一人藤原鎌足の娘で天武天皇の夫人で但馬皇女を生み、天武11年正月没した氷上夫人も祀られている可能性があります。

藤原夫人また大原大刀自と呼ばれるの鎌足の娘の五百重娘は、新田部皇子を生み、妹と考えられますが、その藤原夫人に賜う御歌一首として万葉集に次の歌があります。

わが里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後(のち)」(万葉集巻二・103.104

藤原夫人、和へ奉る歌一首

「わが岡の(おかみ)に言ひて落らしめし雪の(くだ)けし其處に散りけむ

と飛鳥の里に降った雪をめぐるユーモアに富んだ相聞歌を載せています

 

万葉集の最後に近い巻20巻に藤原夫人として次の歌があります。

万葉集巻二十 4479 藤原夫人の歌一首

(浄御原の宮に天の下知らしめしし天皇の夫人なり。字を氷上大刀自といへり)

 朝夕(あさよひ)()のみし泣けば(やき)太刀(たち)()(ごころ)(あれ)は思ひかねつも

  (朝に晩に、泣いてばかりいるので、しっかりした心をとうてい持っていることができません)

同じ姉妹でありながら、歌の明るさには雲泥の差があり、氷上皇女が、どういう境遇であったのか詳しいことはわかりませんが、二人の姉妹の対照的な悲劇性が浮き彫りになっているように感じられます。

現在上高畑町には式内社赤穂神社があります。

古老の話しでは
「昔は赤穂神社をアカボさんと呼んでいる。
昔はもっと地所が広かったが、だんだん削られて狭くなってしまった。
皇族のお姫さんを葬ってある所と言うて、誰もさわるものがなかった。と言うことである。

現在は鏡神社の別社となっていますが、延喜式に記され、また東大寺お水取りの神名帳でも、その名が読みあげられる古社で、元の社地は数百余坪あり、桜の木が多く植えられ辺りは桜田の地名もあったと言います。

大和志料でも赤穂神社と擬しており、延享四年の石灯籠がある。赤部社とする記録もある。


 

十市皇女は鏡王のむすめとされる額田姫王と天武の間にもうけた皇女で、彼女は父に命ぜられるまま、いとこにあたる大友のもとに嫁ぎ、壬申の乱で父に大友を殺された後は失意の日々を送り、678(天武七年四月)宮中において急死をとげたので、自殺ではないかと思われます。

運命にもて遊ばれた薄幸の佳人というイメージが鮮烈であり、やはり悲劇の皇女のイメージがあります。

日本書紀天武紀の記事

天武7年夏4月・・・・斎宮に幸さむとして卜う。・・・平坦の時をとりて警蹕既に動きぬ。百寮列をなし、乗輿蓋命して、、以て未だ出行しますに至らざるに、十市皇女、卒然に病發りて、宮中に薨せぬ。

此れに由りて(ミユキ)簿既に停マリテ、幸行すこと得ず。新宮の西廰の柱に霹靂す。・・・・・十市皇女を赤穂に葬る。

天武天皇の行列が出発しようとしたまさにその時、突然

十市皇女が亡くなったという、不思議な死を伝え、その亡骸を赤穂に葬ったと書かれています。
 

天武11年春、壬子に、氷上夫人、宮中に薨せましぬ。癸丑(19日)地動。辛酉(27日)に氷上夫人を赤穂に祀る。

いずれの皇女も突然宮中において亡くなり,天地に異変が起こっていること、さらに、お二人が赤穂の地に葬されたと書かれています。

 

 

ゴリョウ塚

イガミ御霊さん
不空院の住職談

不空院の巽の隅にゴリョウ塚と言うのがあり、

貴いお姫さんの塚であると伝えている。
どなたの事なのかはわからぬ。

女人守護のご利益のある塚である。

社家の千鳥氏の話しでは。
この辺は、以前は井上村と言い、イネンド(井上堂)と言う祈禱所のあったことが、千鳥家の古図にある。
高野山の丹生都比賣神社の近くに、猪上(イガミ)の社と言うのがある。

この井上堂はイガミさんで、井上内親王を祀ったのがこのゴリョウ塚でなかろうか。

鏡神社の末社の天神さんも、管公さんではなく、家の記録には井上内親王のお子さんの若宮火雷天神(井上内親王の子)だとある。

このゴリョウ塚はイガミさんに違いない。
若宮火雷天神

ゴリョウ塚は春日社の社家中西家が代々守護神として大切にしてこられた。
井上内親王は霊亀三年〈717〉に聖武天皇の長女として生まれ、母は県犬飼広刀自。養老五年(721)五歳の時、伊勢の斎宮に選ばれ神亀四年〈727〉に伊勢に下向。17年後、天平16744)弟の安積親王が薨じると共に任を解かれ退下し、白壁王の妃となる。

宝亀元年(770)称徳天皇の崩御によって白壁王が即位して光仁天皇となり井上内親王は皇后となり、他戸親王が皇太子となるも、宝亀三年に天皇を呪詛したとして皇后を廃され他長戸親王も廃太子となり、翌年には親子とも大和国宇智郡に幽閉され、翌年宝亀6427日、二人は同じ日に薨去する。以降天変地異が続き井上内親王と他戸親王の怨霊の仕業であると恐れられた。

墓は五條市に延暦19年〈800〉に桓武天皇によって皇后の地位が回復され墓も御陵と改められた。

同じ聖武天皇の娘でありながら、かたや天皇となり、母親の差により、幼くして斎宮に出され、下向後は、格下の、しかも30歳近い年上の58歳の白壁王をあてがわれ、運命のいたずらによって皇后となるも、最後は悲劇の死を迎えた井上内親王もまさに悲劇の皇女です。

井上内親王を祭神として祀る御霊神社は数多く、奈良市内では現在は薬師堂町にありますが、元は、元興寺南大門前の井上町にあり、南側一帯は井上郷と呼ばれ、一時井上内親王と他戸親王が篭居されていたといいます。亡くなった地である五条市竜安寺町の御霊神社は御霊本宮と呼ばれています。

千鳥氏は,鏡神社に祀られている天神社は、井上内親王のお子さんの若宮火雷天神(井上内親王の子)だと言う。

伝説では宇智郡に配流された時、井上内親王は身籠っており、産まれたのが火雷神(ほのいかずちのかみ)であり、内親王の御子であるから若宮と呼ばれ、御霊本宮の丹生川の対岸にある火雷神社に祀られています。

このように、井上内親王を始めとして、十市皇女、氷上娘と、いずれも悲劇の皇女であり、赤穂の地が高畑であるとすれば、悲劇の皇女の葬送の地が、飛鳥時代から何故か高畑であることになります。

高畑には赤穂神社があり、媛塚があり、ゴリョウ塚が伝えられています。

まだまだ高畑には分からないことが多く残されており、これからも調べていきたいと思っています。

 

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