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5 中臣氏と祭神についてのまとめ 

中臣氏の名義について、地名説は、その根拠となる史料がなく、断定するには問題を残す。

中臣氏は祭儀という職分によって、宮中における地歩を築いたことが、

古くからの伝承のありようからみて有力と思われ、職名説が妥当と思われる。

出自については、河内と推察されるが、常陸にも、古くから中臣氏の存在の証左があり、

孝徳朝以降に於いては特に中央の中臣氏との結びつきが顕著である。

 中臣氏と鹿嶋の神との結びつきについては、田村氏は鎌足が常陸で産まれ、

少年の頃、宮廷の斎礼をあずかる中臣氏に身を寄せたとする。

氏の説は畿内の中臣氏、常陸の中臣氏という二元説の立場をとるものであり、

二元説については同意見であるが、先述したように、

鎌足の代に常陸から中央へ進出したという考えには賛同できない。

太田氏も鹿嶋の中臣氏が勝海系にとってかわったという二元説という点では、

同意見であるが、多系中臣氏とすれば、春日社で天児屋根命を祀る説明ができない。

横田氏は鹿嶋中臣氏出身であることを、中臣氏の前身が卜部だということで説明されているが、

中村氏の指摘通り卜部氏との係わりには賛同できない。

中臣氏と鹿嶋・香取との確実な文献上の関係として、

養老三年(七一九)七月に安房・上総・下総の三国を管する按察使に任じられ、

同時に常陸守でもあった宇合は、神亀元年(七二四)に再度、

陸奥国の海道蝦夷の持節大将軍として常陸に赴任し、

その際鹿嶋・香取神の分霊を従軍神として帯同しこれを平定したのである。

このことから宇合が、鹿嶋神並びに香取神に接しその認識・評価を高め

春日社に両神を勧請するに至ったと説く説も(⒅)あるが、

氏神は一人の人間の考え、まして氏の長者でもない宇合によって

容易に導入される性質のもではない。むしろ鹿島出身の中臣氏であるが故、

鹿島・香取の神を奉じて、戦ったと考えるべきであろう。

また年代的に平城遷都の時期、あるいは神護景雲二年の、いずれの年とも隔たりがあり

賛成しがたい。

考古学的な研究で、五世紀頃、香取に大和政権にかかわる祭礼遺跡が多出しており、

東国進出における拠点が置かれた可能性から、物部氏の存在をあげ、

それが六世紀中葉に消失したことから、物部氏の没落、

そして鹿嶋に中臣氏により新しい基地の設立が行われた可能性を指摘する

寺村光晴(⒇)氏の考察がある。

氏族の名前については推論の域を出ないが、香取神宮、鹿嶋神宮の創建、

鹿島の中臣氏の存在を六世紀まで引き下げる上で、大いに注目される見解である。

六世紀における仏教導入をめぐる争いに、中臣氏が大きな役割を果たした記事がある。

欽明天皇十三年(五五二)十月、中臣連鎌子が敏達十四年には、その子である中臣勝海が、

疫病が流行した時、物部連守屋とともに仏教信仰を絶つべきことを奏し、

用明天皇二年にも、天皇の仏教信仰に異を唱えている。

この勝海は、中臣氏のその時の宗家であると考えられる。

一方、同じ敏達十四年に中臣磐余と言う人物が、物部、大三輪氏と共に

大臣蘇我馬子に仏教受容に対して反対したとして登場する。

  同じ年に、中臣の氏姓を名乗る二人の人物が書かれていることに関して、

二人が同一人であるという考えもあるが、磐余は『日本書紀』には名前がなく、

「中臣氏系図」に記載のある黒田の子伊禮波と思われ

であるとすれば、中臣氏の傍系氏族である可能性が高い。

中臣の傍系である磐余が、中臣氏宗家の勝海と時期を同じく崇仏の争いに、

物部、大三輪氏という畿内の有力氏族に伍して名を連ねているのは、

三輪氏は太田田根子を始祖とし、その太田田根子は、古事記の崇神記の段で,

建甕槌命の子とされる。

建甕槌は武甕槌、 建御雷と同じで武甕槌であろう。

また物部氏は天神の子とされる饟早日命を祖先とし、志田諄一氏はこの饟早日神は甕速日神、

煐早日神、武甕槌神から構想された神であるとする。

中臣氏が武甕槌神を奉じるのは、鹿嶋の神としてであり、排仏の論争の時期に、

中臣の傍系である磐余が、中臣宗家の勝海と時期を同じくして、この中に加わっているのは、

磐余が武甕槌神と深い関係にある鹿島出身の中臣氏であるが故、武甕槌神を通じて、

この三者の結びつきに加わったと考えられる。

古代においては葛城、物部氏のように畿内に領地、居住地を持つ豪族と違って、

宗像氏や出雲氏のような遠隔地の豪族は、出先機関を畿内におき、

その族人を宮廷に出仕させていたと考えられる。

 中央にいた中臣宗家の勝海と、鹿嶋中臣部の族人として河内に出て来たと思われる

黒田系の中臣氏が、敏達朝にあって併存していたと考える。

やがて中臣勝海は仏教導入を巡る争いの中で、用明天皇二年、迹見赤檮によって切り殺される。

同じ年、物部守屋が蘇我馬子によって滅ぼされ、物部氏は滅亡する。

こうして蘇我氏に敵対した物部氏の宗家と中臣氏の宗家は亡び、

物部氏にあっては石上氏が後を継ぐ。

この石上氏は物部の後裔氏族であるが直木氏は「正当な血統上の本家かどうかは不明であり、

本来は傍流であって、河内國渋川郡を中心とした物部連本宗家とは別に

石上に幡踞していた滅亡を免れた一族ではなかったかと思う」

とされているが、石上地方に幡踞していた物部氏の一氏族が本宗家の滅亡以後、

石上神宮の祭礼権やまた収蔵していた武器類を本宗家に代わって掌握し、

勢力を伸ばし、この一族から石上氏の始祖である石上(物部)麻呂が登場してきた。

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