同じく中臣氏にあっても、本宗家は、勝海の代に滅び、
代わって鹿島から中臣部を代表して河内に出ていた鹿嶋の神官
の系譜に連なる黒田系中臣氏が、絶やすことのできない宮中の
祭礼を司る中臣宗家の職制を継いだと考えるものである。
『中臣氏系図』において、可多能祐は天児屋根尊二十一世、
『春日御社御本地幷御託宣記』には二十二世と書かれており、
当然代々の中臣氏を継いでいることになる。
しかるに、『中臣氏本系帳』には、可多能祐の父、常磐が、
「始賜二中臣連姓一」と書かれ中臣氏の系図はその父、黒田から
始まっている。
『春日御社御本地幷御託宣記』も同様に記述は黒田から
記されている。
このことから、本来鹿嶋の中臣部の出身である中臣が、
常盤の代に至って、中臣宗家から、宮中の祭礼に関る職制を
継ぎ、中臣連を名乗る代替わりがあったと考えられる。
黒田の代に鹿島から河内に進出した中臣氏は、その時点に
於いては畿内・河内に地盤はなく、そのままでは、
宮中の役職に就くことはかなわないが、塩屋氏と姻戚となる
ことにより、畿内・河内における血縁・地縁を築いたとおもわれる。
宗家の滅亡と、反蘇我氏であった磐余に代わって、兄弟で当初は、
中臣塩屋連と復姓を名乗っていたと思われる常盤が、中臣宗家を継ぎ
中臣連を名乗り、その時点で塩屋姓は捨てる。
塩屋氏側に於いては、引き続き中臣塩屋連の複姓を名乗っている。
皇極二年(六四三)『上宮聖徳太子伝補闕記』に、山背大兄皇子を攻める
主要メンバーとして登場する中臣塩屋枚夫がこれである。
『日本書紀』孝徳天皇大化二年に恩賞を受け、そして有馬皇子
の政変で鎌足と敵対し、斬殺された塩屋連鯯魚は
この中臣塩屋連枚夫の子であり、
この代で中臣氏を捨て塩屋連を名乗っていたと考えられる。
この鯯魚は『姓氏家系大辞典』の記載では「東国の人なり」
とあり,恩賞記事の内容から見ても東国の国司であったと思われ、
このことからも鹿島中臣氏との係わりがうかがわれる。
この場合の本宗という言葉は、単に氏の中心という意味を
便宜的に本宗という言葉を用いる。
したがって後の養老令、大宝令の規定に由るような
厳密な相続ではなく、中臣氏にあっては、その祭礼氏族としての
職制を引き継いだことを意味する。
鎌足の父である御食子という名前も、神の神餞にかかわった名前であろう。
後に鎌足が、その宗業を嫌ったとされる話も、祭礼を司る中臣氏の職制を
嫌ったことを意味する。
従って中臣氏系図において、中臣常盤が「始賜二中臣連姓一」
と書かれているのは、本来鹿嶋の中臣部の出身である中臣氏が、
常盤の代に至って、職制を継ぎ、中臣連を名乗ったということに
他ならない。
以後 中臣黒田―常盤―可多能祜―御食子―鎌足と続き、
鎌足に至って藤原姓を名乗ることとなるのである。
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