アベ氏について」
平城京遷都について
造平城京司の職員の長は阿倍宿奈麻呂,多治比池守、 次官には春日氏系の従5位下小野朝臣広人、同馬養。そして中臣人足とこの春日の地に関係のある氏族が勢ぞろいしている感があります。
春日の地については、古代よりまず和珥氏、つづいて春日氏が支配してきたことは書いてきました。
アベ氏は阿倍、安部、阿倍とも書き、朝廷に酒食を献ずる饗(あえ)がその起源だとされています。7世紀前半には蘇我氏と密接な関係を持っていたようですが、
そのため、アベ本宗家は蘇我氏、滅亡の時に滅びてしまい、その後、アベ氏のいくつかの家系の勢力が消長を繰り返しながら、現在の桜井の阿倍の地に本拠を構えたとの見方があります。
『東大寺要録』には和銅元年(708)、行基が「御葢山安部氏社之北高山半中」に建立した天地院という堂舎のことが書かれているが、このアベ氏もその1傍系であるかもしれない。
松田氏は、安部氏の引田氏と布施氏が奈良盆地の南北にそれぞれの私領を持ち、互いにこの春日の地を巡って対立していたと見ています。
引田氏の本拠地としては桜井氏東田(ひがいだ)が挙げられます。奈良市内の菅原の北方、疋田(ひきた)もその候補地のひとつです。
布施氏については、明日香村平田アベ山所在のキトラ古墳の被葬者に阿倍(布施)御主人を想定する意見もあります。
この御葢山に所領をもっていた榎本神を奉斉するアベ氏が神護景雲2年前後に鹿嶋神を奉ずる中臣氏にその地を譲り、アベ山周辺へ遷った。
その後、引田氏と布施氏の争いが落ち着き(アベ宗家の交代)、承平5年(935)に春日の地へと戻る。一方布施氏の本拠である安部山周辺で榎本神が祀らていたが、神護景雲の前後に安部氏と中臣氏とで、神地の交換があり、このことがアベ山の伝承の下敷きとなっているという見解が述べられました。
アベ山周辺は7世紀前半の谷首古墳を嚆矢とし、巨石を用いた横穴式石室を持つ古墳が築造されており、また、7世紀中頃にはアベ寺も造立されており、この時期にはアベ氏がこの地に勢力を持っていたことは事実としてまちがいありません。
アベ氏と春日の地、櫻井の安部、古社記の伝承。すべてが推定の域を出ませんが、何か濃厚なつながりは感じられます。
もうひとつ、平城遷都にあたって和銅元年(708)9月14日元明天皇が添下郡菅原に行幸し、20日に平城を巡幸、22日山背国相楽郡の岡田離宮に行き、27日に春日離宮に至り、28日に後藤原宮に帰ったと言う記述があります。
ここで、アベ氏引田氏の本拠の候補である菅原の地、そして春日離宮の名前が挙がっていることが注目されます。もう一つ加えれば元明天皇は安閇皇女と呼ばれていました。
アベ氏といえば、もうひとつ東国との係わりが無視できません。アベ氏の引田臣比羅夫による斉明朝(7世紀後半)の蝦夷遠征です。この時比羅夫が軍神としてタケミカヅチをかかげ、東北各地にこのタケミカヅチの伝承が多く残されています。
これ緒を受け継いだのが不比等の子宇合で養老3年(719)安房・上総・下総の三国を管する按察使に任じられ同時に常陸守でもあった宇合は陸奥国の海道蝦夷の持節大将軍としてタケミカヅチの神を従軍神として帯同しこれを平定したとあります。これにより東国各地に鹿嶋香取の神が多く祭られることとなります。
以上のように、また話は春日社に戻りますが、こうしてアベ氏を媒介して、
アベ氏と春日の地、そしてタケミカヅチの神。春日大社に関るすべてが結び付くわけですが、決め手はありません。前に書きましたが、春日大社を創建したとされる称徳天皇は阿倍内親王と呼ばれていました。新たな課題も浮かび上がりましたが、これで、アカダマ会における春日社に関する話は終わります。
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