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高畑の伝承について見てきましたが、頭塔について、もう少し詳しく詳しく書いておきます。

頭塔については、2001年に奈良文化財研究所より史跡頭塔発掘調査報告書第62号で非常に詳しく書かれていますので、興味ある方は是非一読されたら良いと思います。

以下は、そこからの抜粋です。

 頭塔の創建については神護景雲元年(767)に東大寺僧実忠によって

完成したことは、ほぼ間違いありません。

発掘調査によって頭塔の造営は上層、下層の塔が明らかになり、少なくとも2段階の造営過程があったことがわかりました。

造営開始の上限については天平勝宝8年(756)に描かれた東大寺山堺四至図に記されていないことから、造営開始時期はこれ以降と考えられます。

そこで正倉院文書天平宝字4年(760)造南寺所解の記事

「東大寺南朱雀路壊平為鬼霊奉写・・・」

(東大寺南の朱雀路にあたる墓を壊すにあたって、その墓の鬼霊の供養のため写経料物を申請するための解)

これが、頭塔造営のための工事に伴うものである可能性が高く、恐らく頭塔下層の工事の始まりを指すと考えています。

 

事実、頭塔の下には、いくつかの古墳が見つかっています。

それらは、春日野に分布する春日山古墳群の中に含まれ、春日山古墳の般的な古墳群とは線を画した上位階層の墳墓であり、6世紀においてはもっとも由緒のある伝統勢力として君臨していた族の墳墓であったと思われ、あえて氏族を比定するならば、古墳の造営時期にほぼ該当する敏達朝頃に春日氏から大宅粟田小野柿本などの諸氏が分枝し、古市地区の護国神社古墳群を大宅氏の、そして頭塔下古墳を春日氏族の墳墓として考えることができるとしています。

発掘調査からは、この時期に造営された下層頭塔の塔身は破壊され、全く異なった姿の上層頭塔に作り替えられたことが分かっています。

理由としては下層の構造がかなり不具合をはらんでいて、石積が崩壊するなど改造せざるえなくなったことと、時期的に、皇太后の病気平癒と恵美押勝乱後の国家安泰の為などが考えられます。

その後奈良時代の末に相輪部分が焼失し、9世紀に相輪に代わって六角屋蓋を持つ石塔が頂部に立つなどの再整備が行われたが、次第に荒廃していったと思われます。

それでは、何故この位置に頭塔が建てられたかという問題は、天平宝字年間に東大寺が南方に寺域を拡大しようとした寺域拡大事業の中核的な事業であった可能性が指摘されています。

立地は、春日山の東麓から西へ延びる台地上の西端に位置し、四条大路の延長上にほぼ一致し、東大寺の中軸よりは若干西に振れることによって、平城京の街から構築物を最大限効果的に見せる場所にあると言えます。

所謂玄昉の首塚伝説に触れておきます。

玄昉の略歴を簡単に書いておきますが、吉備真備と共に養老元年(717)に入唐。

天平7年(735)に多くの仏像経典を携えて帰国。

帰国後は真備と共に、藤原4兄弟の死によって人材不足に陥っていた橘諸兄政権に重用されます。

このことで、広嗣の反感を買い、天平17年(745)には筑前観世音寺に左遷され、その翌年に死去します。

ここから真備と玄昉を排除すべく反乱を起こし鎮圧された広嗣の霊に害され

五体がばらばらに飛び散ったと言った様々な伝説が生まれます。

玄昉の首が落ちた場所については諸説ありますが、いずれも興福寺内であることでは一致しています。

玄昉と興福寺の関係は、玄昉が唐より持ち帰った経典のことごとくが、興福寺に収められたことから生じたと考えられます。

興福寺菩提院は『七大寺巡礼私記』によれば、玄昉の住んだ院であるとされていますが、実際は平安中期以降に玄昉の菩提を弔うため建立された院であろうと考えられています。

平安時代末には頭塔が実忠が造った土塔であることは忘れ去られており、玄昉の頭を埋葬した墓であるという認識が一般化していたようで、さらに『七大寺巡礼私記』によれば、頭塔の周囲はすでに荒廃し、東大寺の施設としては廃絶しており、興福寺関連の施設として認識されており、興福寺がこの地域に支配を拡大していたことが示されています。

興福寺菩提院は10世紀から11世紀初頭が拡大の画期であり、玄昉止住の院家としての創建伝承を持ち、頭塔が玄昉の墓である伝承を頭塔を自らに取り込む根拠とし、これを供養することで玄昉止住以来の法脈を相承する院家であることを主張したと考えられます。

室町時代には頭塔周辺の地域は頭塔郷と称されました。

18世紀になると頭塔は興福寺賢聖院の管理下になり、『奈良坊目拙解』では

小規模な堂舎があったとされます。ところが享保15年(1730)に頭塔は日蓮宗常徳寺に譲渡され末寺となり頭塔寺と称されます。発掘調査では頭塔南面にこの当時の五輪塔や、墓石が確認されています。

南側から見た頭塔。こちら側に頭塔寺がありました。

近世では頭塔が玄昉の墓であるという伝説は広く流布しており、
玄昉の肘を埋めた肘塚、眉と目を埋めたとされる眉目塚、
胴を埋めたとされる胴塚などの伝承がありますが、
『奈良坊目拙解』でもこれらは証拠もなく信用に足りない、
後世に起こった説であろうと述べています。
中世の表記を見ると肘塚は甲斐塚、貝塚であり、眉目は大豆(まめ)が本来であり、頭塔の伝承に合わせて作られたものと思われます。

以上発掘調査報告書に基づく客観的な頭塔の評価ですが、
ここからは私のいわば妄想です。

頭塔の南にあったとされる清水寺は、これも『奈良坊目拙解』によれば玄昉が開基とされ、玄昉が太宰府に左遷された時に、弟子の報恩に譲られ、後に玄昉が非業の死を遂げた時、その骨を持って帰って頭塔に収めたとあり、この報恩の弟子延鎮が山城の八坂に清水寺を建てたが、清水(しみず)に憚って(きよみず)寺としたと言います。

さらにその清水寺の鎮守社が鏡神社です。この鏡神社は広嗣の亡霊の祟りを治めた吉備真備が、佐賀唐津の鏡山に広嗣を祀った神社を奈良に移したもので、ここにも高畑の鏡神社・藤原広嗣そして玄昉と吉備真備が関わります.

 

造東大寺司長官であった吉備真備が、建設した南寺が、
 盟友であった玄昉のために、創建に力を貸した清水寺で、
 
それが後世、頭塔玄昉の墓説に結び付いたのではないかと妄想しています。

玄昉が没したのは天平18年(746)。吉備真備が太宰府にあったのは、
 752~754年で、同年造東大寺長官。

760年に正倉院文書南寺所解。767年に頭塔を造る。

時期的には矛盾はありません。

ただ清水寺に関しては一切資料がなく、遺構も確認されておらず
 これからの研究課題です。

 

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