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2015年も終わろうとしていますが、今年も気楽な隠居の身で
趣味の古代史学を渉猟してきましたが、その中でも奈良県立大学で
受けた田辺征夫氏の平城遷都についての話しが印象に残っています。

従来、わが国最初の本格的都城として建設された藤原京がわずか
20年足らずで、放置され平城京に遷都された理由については
昔から多くの疑問が投げかけられています。

そのことについて、私としては初めて納得できる説明が聞けたと思っています。
田辺氏は奈文研には1944年に入所されたとのことで、私が大学2年の時
1年間奈文研でバイトをしていた時とは若干時間がずれています。
その当時の所長は坪井清足さん。
以下田中琢さん、佐原真さん、工藤圭章さん、町田章さんと
今から考えるとそうそうたるメンバーがまだ若手で、
腰に手ぬぐいをぶら下げて発掘にいそしまれていました。
でも正直、さほど知識も意欲もなかった私が1番その場に
惹かれていたのは、当時一緒に作業した明治大学の学生
その中でも女子学生の存在だったかもしれません。
当時の明治大学は大塚教授の元、千葉県の加曾利貝塚の発掘他
関東の大学の中で考古学では傑出した存在でした。
詳しい事情は知りませんがそういったこともあり、
考古学の専攻生がわざわざ奈良まで来ていたのでしょう。
一緒に作業をしていた中で皆と親しくなり、
その中でも初めて接する関東の女子学生のお姉さんたちには
あこがれを抱いたものです。
遥か昔の青春時代の話しです。

そして平城宮跡と言えば、奈良大学のスクーリングで上野誠先生の授業で
朱雀門の上で皆で遷都の詔を合唱したのも、今となっては懐かしい思い出です。

余計な事ばかり書いていずに本論に入ります。

藤原京は、まず天武天皇の5年(676)に新城に都を作ろうと計画されます。

天武天皇13年(684)
 「天皇京師を巡行きたまいて、宮室之地を定め給う」とようやく建設に動き始めますが
よく14年(685)天武天皇病臥。朱鳥元年(686年)崩御。

さらには、持統天皇の3年(689)には皇太子草壁皇子薨去と続き頓挫しますが
漸く、天武天皇の遺志を継いだ持統天皇の手で、694年に遷都が実行されます。
このようにして日本最初の本格的都城として完成した藤原京が
わずか16年で廃都となった理由として従来考えられているのは以下の通りです。

1;遣唐使によってもたらされた唐長安城に比べて『周礼』の考交記を手本として作られた藤原京の形態が古いものだと判明した。

2:唐が攻めて来た時には藤原京では守りにくい。

3:初めての本格的な京域であったため、都市計画
  いわゆるインフラの整備がなされていなかった。
   汚水の問題・悪臭・等

今回田辺先生の説はこれらの論とは違っていました。
内容については来年にまた書いていこうと思っています。
それでは皆様どうか良いお年をお迎えください。


 
 
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11月28,29の2日間にわたり、5人の講師で行われましたが、
私は所要があり、最後の寺崎先生の講座のみ受講しました。
寺崎先生は私の奈良大学の卒業論文の担当の先生であり、
私の卒業論文は度々このブログでも書いていますように
『春日大社成立の諸問題』
そして今回の講演のテーマが『春日大社の創建とその時代』
聞き逃すわけにはいきません。

大体において講演では時間の関係等でそう詳しい話が聞けるわけではありませんので、
なにか一つでも収穫があれば良しと考えねばなりませんが、今回は一つ大きな収穫が
得られました。
それは「東大寺山堺四至図」に対する京大の吉川真司先生の説です。
従来この図面は正確に描かれてはいるが、所詮絵図であり、実測に基づいたわけではなく、
位置関係や所在の確認に役立つ程度と評価されていましたが、
数年前の新薬師寺の金堂の発掘により、その正確性が改めて評価され直したものです。
そして、最近ここに描かれた神地の場所が現在の春日大社の場所と重ならない
のではないかという説が吉川先生から提起されているという話でした。

これは重大な問題を含みます。
もしその場所が違うとすれば春日大社がこの絵図の制作年代にすでにあったと言う説は
退けられることになります。
また発掘によって確認された築地塀が春日大社とは関係なく
この神地のみのものとなります。

私の論文でも、春日大社の成立は神護景雲二年説をとっていましたので、
この説は有力な援護となります。

まだまだ紆余曲折はあるでしょうが、今回の話しは春日大社の成立年代に
大きな波紋を呼ぶものです。
私はまだこの東大出版の『古代荘園図』を読んでいませんので、
是非とも読まなければいけません。
 
もう一つ今回の話しの中で、『日本霊異記』の藤原永手に関する話が紹介されていました。

ご承知のように、聖武天皇を始め、光明皇后、そして孝謙天皇は深く仏教に傾倒していたことはよく知られています。
さらに仲麻呂もまえに紹介した『孤鷹の天』でも描かれているように中国文化に傾倒し、儒学を好んだ人物です。
従って説話集であり資料としての信頼性は低いものの、世間的に永手が仏教にさほど関心を持っていないことが伺われるこの話は、永手こそが、春日社の創立に関わった人物である可能性が非常に高いことを示しています。
今回の話しからも私の春日社の関する見解が大きく間違っていなかったと言えると思います。

今回のアカダマ会は講談社から出版されている『奈良の平日』の著者
浅野詠子さんを講師にお迎えして「ことのまあかり」さんで開催しました。
浅野さんは、長年奈良新聞の記者をされており、その取材で奈良の各地を自分の歩き回った
経験をもとに、現在講演や、観光ガイド活動をされています。
そうした中で、浅野さんが特に注目しているのは、文化財指定されるような遺跡でなく
街中の近代遺産で、奈良市内の勝南町の民家に残されたトロッコのレールの跡からその民家が
かって繊維工場であったことを物語る遺産であること、
奈良市北部の少年院近くの奈良市水道局旧計量器室の建物から近代奈良の水道の歴史をたどるといった見過ごされがちな遺産です。

また近代奈良の文化人サロンの発掘として、奈良女高師の教授であった水木要太郎氏を
囲むサロン。
あるいは実業家安田信太朗氏を囲むサロン。
もちろん志賀直哉や、東大寺の観音院のサロン。

さらには、旅館日吉館やアカダマのお客さんを中心としたサロンなども取り上げていただいていました。
奈良と言うと、近代はつい軽視されがちですが、視点によっていろいろ興味深いものがあることに思い致されました。


正倉院展が始まり、ひときわにぎわいを見せている奈良公園の一角、
県庁東の交差点の北東角に、春日大社の摂社拍子神社が、ほとんど訪れる人もなく、
ひっそりとたたずんでいます。

この神社の祭神は、狛近真という鎌倉時代に実在した南都楽所の左方・一者の楽人です。



                 

その昔雅楽を奏するものを楽人、その第一人者を一の者(いちのもの)と称しました。

雅楽には主に中国から伝わった楽曲(唐楽)を左、その曲を主に演じる方を左方。
朝鮮半島から伝わった楽曲を(狛楽)を右とし、それを奏する方を右方と称します。

楽所とは楽人が所属する団体のことで、かって京都の大内楽所、奈良の南都楽所、大阪の天王寺楽所が天下の三方楽所と呼ばれていました。
また雅楽を家職とする家を楽家と呼び、その末裔は明治に至ってその三方楽所の楽人が
東京へ移され職員として宮内庁楽部の楽人となるまでで雅楽をもって仕えていました。

ちなみにテレビなどで活躍する東儀秀樹氏の東儀家は天王寺楽所に所属した楽家で、
秀樹氏はその
末裔です。

南都楽所は京に都が遷った後も奈良にとどまり南都の社寺の諸行事に奉仕した楽人の団体で、明治に至るまでその本拠を氷室神社においていました。
明治になって多くの楽人が東京へ召された後、一時南都楽所は解散されましたが、
春日大社の[おん祭リ」を始めとして、奈良の社寺の行事を支えるため、民間の有志で雅楽団体が結成され、奈良雅楽会、春日古楽保存会として存続し、今は社団法人の南都楽所として活動しています。
一方南都楽所の事務所が置かれていた氷室神社でも晃耀会という団体で雅楽が続けられています。

 狛氏は代々雅楽の左方舞を家の芸として仕える楽家であり、一条天皇の時に狛の姓を賜ったと伝えられる楽家の名門で南都楽所の中心的な存在でした。

狛近真はその狛家の秘曲を一身に身に着けた名人でしたが、折から源平の争乱によって雅楽も衰退を余儀なくされ、狛家自体もその存亡が危ぶまれる事態に陥り、伝来の芸を次の代に伝えるため「教訓抄」と言う全十巻の書物を著わし、それが今に至るまで雅楽を志す者にとって貴重な雅楽書の指南書として伝えられ、自身も「ひょうしの神」と音楽・芸能の神としてこの拍子神社に祀られている次第です。

また、氷室神社の境内には狛氏の祖であり楽祖と讃えられる光高を祀る「舞光社」という祠があります。

 
また氷室神社には雅楽にゆかりの日袋を持つ灯篭があります。

楽太鼓の彫り物、その横側には舞h人が描かれています。

橿原神宮では平成28年の神武天皇2600年大祭に合わせ屋根の葺き替えなどの修復工事が行われてます。
それに伴い11月の30日まで本殿と,勅使館、貴賓館,文華館の3つの建物と庭が特別公開されています。
 そこで、この機会に久しぶりに橿原神宮に参拝をしてきました。
橿原神宮は明治22年創建と言うことで、神社としての歴史は古くありません。
ただお祀りされている神は日本最初の天皇とされる神武天皇。
もちろんその実存については学問的には疑問が持たれてはいますが、神話が全くの
創作である可能性よりは、多くの古来よりの伝承を含んだものである事は間違いないと
私は思っています。
そのことについては、書き出せば切がありませんが、それは置いておいて、
明治天皇を神としてお祀りする明治神宮に比べれば、はるか悠久の神話の中の天皇である
神武天皇をお祀りする橿原神宮の方が私にとっては、より神として参拝するに
 ありがたい気がします。

 
参拝したのが朝まだ早い時間であったこともあり、久しぶりの橿原神宮の境内は
奈良市内の観光客でごった返す神社と違って厳かさ静謐に満ちていました。


今回公開された本殿は安政2年に建造された京都御所の元内侍所で、橿原神宮創建にあたって降下された建物です。
そしてその本殿周辺は普段は神職以外は立ちることができない特別な空間で、日ごろは決して見ることができない角度から本殿をまじかに見ることができます。

畝傍山をバックに社を眺めるこの角度も普段は見れません。

勅使館は大正6年に建てらてた建物で、座敷に上がって内部を見ることができます。

天皇陛下からの御幣物の実物の展示もあります。


文華館は旧柳本藩織田家の表向御殿を移築したもので大名屋敷の姿を良く
とどめています。
 
 
本殿と3施設の見学には、参拝料などとして各千円が必要(計2千円)。午前9時~午後4時。
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