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春日大社の「いのちと心の講座」に行ってきました。
今回は標記の講演が行われました。
講師は天理大学の幡鎌一弘氏。
 

中臣祐範とは春日社家の東地井祐範のことで、東地井はトチイと読みます。
このブログで何度も書いていますので詳しいことは省略しますが、
春日の社家は一般的な神社の社家という言葉と違って、鹿島からお供してきたと
言われる中臣殖栗連 時風・秀行の子孫だけを社家と言います。
この両家を春日では正預と称しますが、要するに藤原氏の氏の長者に代わって
春日社を預かっているという意味です。

そして鎌倉時代に若宮社が創設され若宮神主を務めた千鳥家。

そして、当初は春日祭に際して神祇官から勅使と共に派遣され
天皇の宣命を奏上する役儀であった中臣氏が常勤の神主となり
大中臣、後に中東家となったその三惣官だけが社家と呼ばれ
幕末では19家が数えられました。
整理すると

大中臣恒瀧が中東家の祖で、そこから奥、正真院、西、向井、中、奥田、中西
と言った社家が派生します。
そして当初春日参道から北側に位置する野田に住いしたことから北郷社家と呼ばれます。

中臣植栗連時風を祖とする辰市家。
 そこから千鳥家が分かれさらに、井戸、今西、南の各社家が産まれ。東地井家、北
 新、辰巳家が派生します。

中臣植栗連秀行を祖とする大東家から上、富田、大西家。
以上の19家が社家です。

辰市、大東家は高畑に住んだため南郷社家と呼ばれています。

明治維新以降辰市家は春日を離れ、大東家は先代まで春日に奉職していましたが、
現在は、春日には籍がなく、唯一千鳥家の当主のみが今なお春日に奉職しています。

今回の祐範記の著者は上記の辰市家から分かれた東地井家で、
14cの祐枝を家祖とし、祐範記は慶長4年に正預となり、天文11年(1542)から
元和9年(1623)死に至るまでの記録です。

というわけで、その間祐範が記した日記を読み解いたわけですが、
確かに興味深い話も散見しましたが、私にとっては残念ながら
あまり収穫のない内容でした。
祐範記の2巻はすでの今回の造替記念として発刊済みで残り1巻も夏頃には
発刊予定とのことです。
正直専門職というのはかくもこまごましたことを丁寧に読み解いていくのかと
感心すると同時に私にはとてもこれだけの根気はないと、つくづく思わされました。

中臣氏については、私の論文で言及していますが、未だ学会でも確論はありません。
私は鹿島の中臣本家とは格段のつながりはなく、いわば後から中臣一門に加わった
地方豪族と思っています。
このことについて書き出すときりがありませんので今回はここまでにしておきます。
 
 
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今回のアカダマ会は京都造形芸術大学の庭園がご専門の仲先生を講師にお迎えして、
旧山口家別邸についてお話を伺いました。
旧山口家南都別邸などと言ってもどこのことかお分かりにならないと思いますが、
浮御堂の北側傾斜地にあった旧家庭裁判所、裁判所宿舎跡地一帯がそれに該当します。
古く奈良時代から室町時代にかけて興福寺の勢力の拡大につれて寺僧の住居である子院
が寺外に多く建てられていきました。

その子院にも南北朝以降寺格が生じていきます。
その中でも皇族の出身者が入寺した子院を門跡と称し、
興福寺では大乗院と一条院がそれにあたります。
大乗院は今の奈良ホテル一帯にあり、御所馬場と言った地名と
土塀にその名残を残し、庭園は保存修復され公開されています。

 一条院は明治の廃仏毀釈により、県のものとなり跡地は県庁となっています。
足利義昭は一条院門跡から還俗して足利最後の将軍になりました。
そして一条院の最後の門跡である水谷川忠起が官幣大社春日大社の初代宮司となっています。

  その門跡に次ぐ格を持つのが院家と言われる塔頭です。
院家は修南院、喜多院、松林院、東北院の四家あり主に公家の子弟が院主となります。

院家の下には、学侶、堂司、三綱、承仕、仕丁と続き各々格を持ち
一種のヒエラルキーを形成しています。

松林院家については、百人一首かるたに関わるものとしては興味深い話があり、
藤原定家以来、歌道の家として知られる冷泉家の第18代為則の五男が松林院家
の最後の住職、法印大僧都実雅として名を残しています。
  
この松林院家が明治の廃仏希釈により廃絶し、実雅が還俗して松林為成となり、
松林家は明治17年には男爵を授爵されていますが松林院の跡地は民間の手にわたります。

明治の廃仏毀釈は多くの奈良の寺地や、神社の社地に悲劇的な運命を与えていますが
この松林院の跡地もその後は持ち主を変え明治も終わりの44年に至って
大阪の財閥山口謙四郎が所有者となります。

戦後は国有地となり裁判所として使用され、2005年に至って奈良県に移管されます。
その後約10年は利用方法が決まらずいわば放置されていましたが2014年になり、
奈良県が、その地の活用を考え、その事前調査として発掘調査がなされます。

今日の話はここからが本題です。
発掘の結果、予想はされていましたが、庭園以降が見つかり、これは予想以上ですが
庭園として価値の高いものであることが判明します。
予備知識として以上のことがあり、その庭園遺構がどういった性格のものであるか?
どのように利用されていたかと言ったことのレクチャ―をまず受けました。

そしていよいよ現地の見学です。
近くに住まいする私としては長年内部がどのようになっているか興味津々でしたし、
そもそもメンバーの皆にすれば初めて聞く話であり、いったい現状がどのようなものであるのか
足を踏み入れるまで想像もつかず、一見して思わず感嘆の声があちこちで起こりました。
 
ある程度整理されていますが内部は草ぼうぼう、原生林に近い状態です。
そして待望の庭園遺構。
ドキドキしながら足を踏み入れました。



まず目につくのは滝の遺構です。巨石を立てに配置しその上を水が流れるような仕組みです。

その滝から流れた水が注ぎこむ池の遺構です。


これは滝の上部にある井戸でここからあふれ出た水が滝に注ぐように配置されていますが、
ご覧のように水源は湧水ではなく、水道水です。
現地は北が低く南が高い自然の地形を生かし、高台からは鷺池を通しての奈良公園の風景が見渡され、絶景と言えますが、今は木が生い茂り景色はあまり見えません。

さてこの庭園は、山口謙四郎の兄で山口財閥の当主である山口吉郎兵衛の差配によるものですが
吉郎兵衛は銀行家であると同時に「滴翠」と号した茶道家でした。
また洋画家の小見寺八山のパトロンであり、この小見寺をこの別荘の一角に住まわせていました。
この小見寺を訪ねて志賀直哉もしばしばこの別荘に足を運んだようで、志賀直哉の小説
「淋しき生涯」の主人公はこの小見寺を主人公にしたものでした。
また茶人である謙四郎はこの別荘庭園の一角に茶室を設け、しばしば茶会をも要したことが分かっています。
客人としては志賀直哉を始め、武者小路実篤などの高畑サロンのメンバー。
野村財閥の創始者である野村徳七.宗教家、政治家として高名な
大谷尊由などが名を残しています。
残念ながら今はその茶室は現存していませんが写真は残り、建物の後も確認されていますので復元は可能なようです。

現状は草木が茂り、見通しも悪くなかなか往時の姿を想像するのは難しいですが、
鷺池に臨んだ北向きの傾斜地という絶好のロケーションであり、奈良には数少ない
貴重な近世庭園であり、多くの文人墨客を迎えた茶室も確認されているこの遺構を
現状のままにしておくのは奈良のためばかりでなく、日本のために
実にもったいない話であり、何とか有意義に活用されるべきであると思います。

おりしも、県が12月26日にこの場所に高級ホテルを誘致する計画を発表しました。
果たしてホテルの応募があるかどうかはわかりませんし、ホテルがベストとは思いませんが、
 県の財政事情からも民間活力を利用する方法もありかとは思います。
 
ただ最近この土地のすぐ横を手に入れた奈良とは本来何の縁もなく、
奈良の歴史的な背景や文化的価値に何の知識もない人が、
自己の利益のためにのみ反対運動を扇動しているのは実に残念なことです。
この方は以前にも近くの同じく興福寺の残された数少ない旧塔頭の跡地に
市が美術館を計画をした時、静かな環境が侵されるという理由で反対し、
結局その計画が破棄され、以来何十年市民税金をつぎ込んだ土地が放置されるという
原因を作った人です。
 奈良では有数の資産家であり、社会的地位もある方なのですから、
もう少し広い観点でこの遺構を活用することが奈良にとって、
日本にとって良いことかどうかという客観的な判断をしてもらいたいものです。
現場の土地は木が生い茂り、竹林が侵食し鬱蒼とした状態で、
以前にそこに生えている木が折れ、通行人を直撃してけが人が出たこともあります。
今の荒れた状態でこれからまた何十年放置されるという事態は避けるべきです。
奈良公園の一角に位置し、景色の良い場所、有効利用されるのが
県・市民、そして観光客のためになると私は思います。
奈良では各町ごとに氏神さんがあり10月1日の氷室神社を皮切りに
5日は手向山八幡、10日は宅春日と順次秋祭りが行われていきます。
正確に言うと氏神さんはその氏族の神を祀った神社ですから、
産土神と言うのが正しいのですが、今では皆、氏神さんと言っています。
宮司さんに聞いてもどの町がどの氏神さんという線引きはいつだれが決めたか
良くはわからないそうです。

  
 
いずれにしろ、私が住む高畑の氏神さんは鏡神社。
 社伝には遣唐使発遣の祈祷所であった当地に平城天皇即位の大同元年(806年)
新薬師寺鎮守として創祠されたとあります。
祭神は天照皇大神、藤原広嗣公、地主神で、本殿は春日大社の社殿を下賜されたもので
奈良市指定文化財です。
藤原広嗣の霊を鎮めるために創設されたと言われますが、町の人達にとっては
それはあまり関係なく、わが町の氏神さんということです。

私は今年は町内の役員にあたっていたため、初めてお祭りの手伝いに参加しました。
14日が宵宮で朝9時に神社の集合して祭りの準備です。
まず神輿を蔵から運び出しますが、なんせ役員の平均年齢は70をはるかに超えていますので
前期高齢者の65歳以上が若手ということで、力仕事。
限界集落ならぬ限界町、これが日本の縮図かもしれません。
でも今の年寄りは皆元気です。
無事運びだし、次に御霊を神輿に遷す神事が役員が作る人垣の中、
警蹕の声とともに行われます。
大きな神社の御動座は深夜に神職の手で行われるのが普通ですが、
白昼に一般人である町内の役員が作る人垣の中、警蹕の声とともに行われるのが
いかにも素朴で、却って新鮮でした。

 
こうして無事神様はお神輿にお移りになりそのお神輿の前で祭典ののち、
町の人達も参拝に来て、宵宮の始まりです。
  
境内では色んな余興が行われます。演奏や紙芝居。
 
文化財に指定されるような立派なお祭りではなく、昔ながらの町の本当に素朴なお祭り。
それはそれで味わいがあります。
宵宮が終了して、後かたずけが終わったのは夜の9時、本当にまる一日がかり。
 
今まで傍観者でしたが、役員の人達がこんなにも大変なことをしていたんだと
始めて気付かされました。

 あくる15日が本祭り、やはり朝9時に集合して今度のはお練りの準備です。
そして10時からは祭典。
打楽器奏者の奉納もありました。


かっては人の手で担いだ神輿も今はトラックの荷台に積みます。
これも、役員の顔ぶれを見れば仕方のないことです。

お稚児さんも町内では確保できず、手をつくしてかき集めるような状態ですが
何とかかわいい稚児さんたちが来てくれました。

もちろん徒歩でお練りは無理で乗用車に乗ります。
なんかお練りと言っても、という感じですが、
それでもこうやって祭りを続けていくことに意義があるのかもしれません。
一旦途絶えると復活は至難の業です。

お練りの一行が氏子の町内を一週して帰って来たのが3時過ぎ。 
神輿の神様を元通り社殿にお還り頂いて祭りはようやく終了です。
 
すべての後片付けが終わって直会。
初体験のお祭りのお手伝いがすべて無事終了。

日ごろお目にかかることのない他の町の方とも何人か親しくなることができました。
得難い貴重な2日間の経験でした。本当にお疲れさんでした。

今回のソムリエアカダマ会は紀寺についての話しです。
講師は璉珹寺通信編集長の野尻氏です。

奈良市民であれば、市内循環で紀寺と言うバス停があることはご存知の方も多いと思います。

そのバス停で下車して、時間があるから一度紀寺と言うお寺を訪ねてみようと思ったとします。
しかしどこを探してもそんなお寺は見つかりません。
通りがかりの人に聞いても首をかしげるばかり。
まさに幻の寺。

近鉄西大寺駅が西大寺と言う寺の近くであることを知られていないのと
同じかもしれませんが、西大寺は存在しますが、紀寺と言う寺は存在しません。

と言うわけで、今日はその紀寺の歴史について話していただけるということ。
長年奈良に住みながら勉強不足のわが身にとっては大変興味深い話です。

話しは平城遷都より100年さかのぼった推古朝から始まります。
あの有名な小野妹子が率いる遣隋使に従った学僧の中に恵隠と言う僧がいました。
隋にて30年と言う期間学を修めた恵隠が帰国して、孝徳天皇に無量壽経を購読した
という記事が日本書紀にあります。
その恵隠上人が住いした寺が訳田寺、通称「紀寺」です。
訳田者と言うのは、今でいう通訳のことで、渡来人が建てた寺で訳田寺。
その檀那となったのが紀氏であることから、通称紀寺と呼ばれたと言います。
さてその紀寺が藤原京では左京8条2坊に移されたとあります。
現在の明日香村大字小山小字キデラがその地と思われます。
但し発掘調査では紀寺である確かな証拠は見つからず、「小山廃寺」と呼ばれています。
藤原京でも地名にキデラを残しますが、幻の寺と言うわけです。

さて次に平城京。
ここでは左京5条7坊に紀寺は移されます。
文献では「続日本紀」天平宝字8年(764)7月の記事に紀寺の奴、
云々と言う記事があり、その存在が確認されます。
現在奈良市役所に奈良文化財研究所が監修して制作した平城京の
復元模型が展示されていますが、そこにはしっかりと紀寺が復元されています。
740年に聖武天皇が奈良の都を離れ遷都を繰り返しが再び平城京に戻った
745年ごろ、聖武天皇の発願、行基菩薩開基の寺として璉珹寺が創建されます。
法興寺(飛鳥寺)あるいは元興寺が奈良の都に移された後も旧名により飛鳥寺と
称されたように、璉珹寺もその頃、旧名により紀寺と呼ばれていたようです。
また檀那として紀氏のかかわりがあったと思われます。

寺名の璉珹については、野尻氏は出展を史記の戦国時代、
秦の昭王と趙の恵文王の間で和氏の璧を巡って繰り広げられた
故事に由来すると考えられています。
この話は完璧という言葉の出典にもなっている故事です。 
その当時紀氏には紀清人と言う、聖武天皇の侍講も務めた
中国の古典に優れた学者がおり、彼がその命名に関わった可能性を指摘されています。

以上でお分かりのように、現在紀寺と言う寺はなく、
裸地蔵として有名な璉珹寺が、
藤原京時代に紀寺と呼ばれたことから、
奈良でも通称紀寺と呼ばれたということです。

さてそれでは紀寺を氏寺とする紀氏とはどういう氏族かと言えば、
遠く祖先は武内宿祢とされる氏族で,文武天皇の妃として紀朝臣竈門娘をだし、
また、大宝元年には、藤原不比等、大伴安麻呂と共に3人の大納言の一人として
紀朝臣麻呂が名を連ねています。
このことから、奈良時代の初めには有力豪族であったことが伺えます。

ただその後紀氏は政権に近い立場より、学問の家として身を立てたようで、
先に璉珹寺の命名に関与したと思われる紀清人を始め、
土佐日記で有名な紀貫之、
百人一首にも取り上げられている紀友則、
さらに菅原道真の詩友である紀長谷雄等
学者、歌人として高名な人物を輩出しています。

奈良から都が遷った後の紀寺ですが、長岡京にも左京6条2坊に移り、
さらに平安京では寺名を誓願寺と変えていきました。

奈良の寺の平安京への移転を嫌った桓武天皇の下では珍しいことです。
おそらく政権から距離を置いたことが幸いしたのかもしれません。

以上が今回のアカダマ会の紀寺の話しの概略ですが、
まぼろしの寺と言われる紀寺の姿が
おぼろげに見えてきた気がし、なかなかに興味深い話でした。

奈良大学、そして昨年の奈良県立大学に続いて今年は奈良教育大学の
オープンクラス、聴講を受けました。

科目は「日本史概説」古代律令制です。
クラスは40人余り、そのうち聴講生は4人でした。
県立大学はクラスのほとんどが中高年、その中にちらほら現役生でしたが、
今回は現役生に中に中高年が紛れ込んだ感じです。
残念ながら現役生とは知り合うことができませんでした。
ま、当然と言えば当然、クラスに紛れ込んだ異分子ですから、
授業はやはり奈良大学とはかなり違っていかにも教員養成大学。
常に教師となったとき自分はどう教えるかを念頭に置いて考えることが求められていて、
それはそれでなかなか新鮮でした。
授業は古代律令制について詳しく15回の授業で学ぶものでした。
一つの時代、一つの事例についてこれだけ詳しく学ぶのは初めてで、大変有意義でしたが
それほど知識のない学生がこの一点にのみ集中して学んで、果たして歴史に対する理解が
深まるのか少し疑問は感じます。

 
古代律令制は唐の制度にを習ったものです。
天智の時代に唐・新羅の連合軍と戦って惨敗を喫した天武朝の時代は、
ある意味現在と同じで中国の脅威を一番感じていた時代です。
 従ってこの律令制の中でも軍政は重要な要素です。
超巨大国家に向かい合う日本と朝鮮半島の対処の仕方は昔も今も常に同じ。
要するに日本と朝鮮半島と手を結んで中国に対するか、中国と朝鮮半島とが手を結んで
日本に対するかの繰り返しであるということです。
 
日本の古代律令制は、律令のもとにいかに軍隊を編成するかに注がれましたが、
それも朝鮮半島の情勢によって、時には厳しく、時には緩む繰り返しで、
時にはそれに日本の権力闘争も複雑に絡み合います。
端的に言えば対新羅関係が日本の権力の推移に直結しました。
律令体制が最初に整備された時期は藤原不比等政権であり、
それが少し緩んだのが長屋王政権。
その反動で強化されたのが藤原4兄弟政権。
次いで軍縮時代は橘諸兄政権。
強化されたのが次の藤原仲麻呂政権。
それは朝鮮半島における権力のバランスに呼応したものです。
 古来日本の対朝鮮半島政策は、百済・新羅・高句麗。後には、渤海国などと如何に外交関係を結ぶかによって日本国内の権力が左右されてきました。
 奈良時代の 光仁朝を経て、平安時代に至り,唐帝国の解体と共に、
日本の軍事態勢もほとんど解かれ、やがては律令体制そのものも、崩壊していきます。

現在も中国は巨大な人口と経済力・軍事力を備えた日本の隣国であり続けます。
従って日本は中國とそして、その周辺国、さらには現在では
アメリカ・ヨーロッパ、さらにはロシアなどを絡めて如何に外交を進めていくかに
かかっています。
 
温故知新、歴史を学んでいかに現在の国際情勢に対処するか?
まさに「学んで思わざればすなわちあやうし」です。

日本の地政学的な立地から言って東洋の巨大国家中國と如何に付き合って行けば良いか、
そして朝鮮半島、近隣のアジアの国々と如何に関係すべきか。
この日本の永遠の課題に古代史を学んで、現在の東アジアに思いを巡らされた
半年の授業でした。
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奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.
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