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アカダマブログ
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長年奈良に住んでいながら、このお祭りは当然のことながら
5月2日と日にちで決まっている為、働いている間は
平日にあたると来れないこともありましたし、
 当日行われる鏡池での舞楽に昔は参加していたので、
 聖武祭を拝観するのは初めてです。

鏡池には東アジア芸術祭で組み立てられたという木造船が浮かんでいて驚かされました。
 
 
今回の聖武祭は5月1日付けで管長に就任された第222世別当狹川普文大僧正(64)の
初お目見えです。
稚児行列、天平装束の美女?列、ミス奈良と行列が続き

 東大寺の僧侶列



行列の差配役はアカダマ会でお話を頂いた上司永照師。
なかなかにかっこよかったです・

そして新管長が輿で入場です。



大仏殿の中で執り行われた法要を拝聴させていただいた後、お茶席。
そして、鏡池の上で行われている舞楽。

童舞の胡蝶

蘭陵王。
南都楽所を離れて20年余り、蘭陵王を通してゆっくり見るのは初めての経験です。
昔は見ていても舞ぶりや演奏の細かいことが気になってあまり楽しめませんでしたが
年月のなせる業でしょうか、池畔の木陰に腰かけ純粋に雅楽をゆったりとした気分で楽しむことができ流れてくる演奏も耳に心地よく響きました。
天気には恵まれましたが、なんといきなり30度近い真夏日。
さぞお渡りに参加された人、雅楽の人たちも暑かったことと思います。
お疲れさまでした。
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奈良大学通信学部OB会の学友会近畿支部の見学会に初めて参加しました。

三島と言うところが私の長年のテーマである春日大社と
それに関わる藤原氏・中臣氏に大変ゆかりの深い土地だからです。

ただ、今回は私の私的な訪問ではありませんので、まずは三島の有名な
遺跡・古墳を訪れました。

最初に、公園として整備されている埴輪工場遺跡です。
ここで大田茶臼山古墳や今城塚古墳の埴輪が造られたとされる5~6世紀の遺跡で
埴輪の窯跡や工房跡が復元されています。
100年にわたって工房として次々と少しづつ場所を変えながら斜面に登り窯が
築かれたことがよくわかります。



番山古墳は5世紀中ごろの地元の有力者の古墳と考えられ、
帆立貝式前方後円墳でほぼ原形が残っている貴重な古墳です。




安満山古墳は安満山の中腹墓地公園の上にあり、タクシーの運転手も場所を知らず
墓地公園と言ってようやく連れて行ってもらえましたが、実は平成9年に
この古墳が発見された時には大変な騒ぎで、見学の人が列をなしたものです。
それと言うのも、この古墳から日本最古の年号鏡、青龍3年〈235〉の銘を持つ
方格規矩四面鏡が、所謂卑弥呼の鏡として有名な古いタイプの三角縁神獣鏡と一緒に
出土したことから、この古墳の主が卑弥呼の使節団の一員であり、
卑弥呼から直接この鏡を授けられたのではないかと考えられたからです。
古墳内部がガラス製の覆いを通して観察でき大変興味深い古墳でした。
古墳のある安満山からは大阪が一望できます。



この三島の地には500基以上の古墳が確認され、古代から一大勢力があったところですが、
その中でも二つの継体陵が最大の見所です。

その一つ太田茶臼山古墳は宮内庁が継体陵として比定している「三島藍野陵」で、
全長230mの抜群の規模を誇る大古墳です。
継体天皇は、応神天皇五世の孫とされ、後継者のいない武烈天皇の死によってヤマト王権に迎えられ、淀川左岸の樟葉宮で即位し、やがて木津川左岸の「筒城宮』、桂川右岸の「弟国宮」に宮を移し、約20年間淀川・木津川流域にに宮を営んだのち、大和「磐余玉穂宮」に入り、『日本書紀』では531年にその地で亡くなり藍野に祀られたとされます。
5世の孫などと言うのは実際のところ、ほとんど他人と言ってもいいような関係ですから、
仁賢天皇の娘である手白香皇女を后として迎えることが条件であったと
考えられます。
相すれば産まれた子は継体天皇の子であるより、任賢天皇の子である手白香皇女の子であることにより、仁賢天皇の孫として皇統は守られる、つまり男系の女子⇒女系の男子と言う継承が成立します。

継体天皇の即位が、大和に入るまでに20年を要したことで様々な理由が考えらていますが、そのことはまた別の機会として、この三島の地で大きな力を持っていたことは間違いありません。
 
真の継体陵とされる今城塚古墳です。
墳丘長181m、周濠を含めた総長は35mの王墓にふさわしい巨大古墳です。

何故この今城塚古墳が陵墓にならなかったかと言えば、
戦国期に山城が築城され
墳丘が破壊されていたことにあると思われます。
享保17年〈1699〉に継体陵は今城塚ではなく、
史料批判のない文献考証と、現地における口碑流伝の採集と言った
「19世紀の学知」に基づき太田茶臼山古墳に治定され、
今に至るまで宮内庁の管理におかれています。
しかし現在では発掘に基づく考古学的検証、文献考証の両面から、
この今城塚が真の継体陵であることは間違いないとされていますが、
幸か不幸か、陵墓にも、陵墓参考地に比定されていないおかげで
史跡公園として整備され、かつまた墳墓にも自由に立ち入ることが出来るのは、
我々にはありがたいことです。
 外提の上に復元された埴輪祭礼場。

最後になりましたが、鎌足と三島については,家伝によれば、
舒明天皇の代に宗業をつがしめしたが固辞して受けず,
三島の別業に帰したとあり、書紀には、
皇極3年に神祇伯を拝したが再三固辞して受けず
疾と称して三島に退去したとあり
この地が中臣氏の故地であったことをうかがわせます。

さらには、私がこの地に来たかった理由は、阿武山古墳の存在です。
阿武山古墳は1934年に京都帝国大学理学部が地下に地震計を
設置するために掘削したところ偶然に発見され石室から
ミイラ化した被葬者が見つかり,
棺内撚金糸が分析の結果鎌足が天智天皇から授けられた大職冠ではないかと
大騒動になった古墳です。
その後古墳は紆余曲折があって埋め戻され、
戦後もしばらくは忘れられていましたが
1982年に至りその当時のエックス線写真が再発見され
再び注目を浴びました。
残念ながら今回は阿武山古墳に足を運べなかったのですが、
阿武山を遠望して位置関係が把握できたことを唯一の収穫としました。
 
橿原で用事を済まし、少し時間があったので、以前から一度は行きたいと考えていた飛鳥小原
(万葉集では大原)の里へ行ってきました。
思い立って突然来たので詳しい場所も全く分からずとりあえず飛鳥坐神社を目指しました。

神社に参拝を済まして横手の道を歩くこと数分で目指す大伴夫人の墓の石柱が見つかりました。

石柱の前に置かれた案内板によれば、円墳は東西約11m、
南北約12m、高さ約2.4mの大きさの墳墓とのことです。

 大伴夫人とは、大伴咋(くい)の娘・智仙娘のことで、
中臣御食子
(なかとみのみけこ)の妻となって鎌足を生んだとされています。
ちなみに、大伴咋は任那問題で失脚した大連・大伴金村の子で、崇峻天皇から推古天皇の時代にかけて活躍し、崇峻天皇4年には、任那再興のため大将軍となって筑紫まで出陣している。 
 
仏教導入を巡るいわゆる物部戦争で物部氏に味方して一旦力を失ったと考えられる中臣氏ですが、
大友氏と縁戚をむすべるまでに勢力を回復したのか、逆にこの婚姻によって力をつけたのかは判断が難しいところですが、鎌足が中央で活躍できるにあたっては大伴氏の後援を得られたのは大きいと思います。

「大伴夫人の墓」から少し先の道路の反対側に、小原の人たちが氏神様と呼んでいる小さな神社が
 あり、大原神社と呼ばれているようです。
 その境内の前に「大職冠誕生旧跡」と書かれた石柱が建っています。

大織冠とは、天智天皇8年(669)10月、天智天皇が死の床にある中臣鎌足の家に
弟の大海人皇子を遣わして、藤原の姓とともに授けた大臣の位であり、
正一位に相当するという。
これ以後、中臣鎌足は大織冠・藤原鎌足と呼ばれるようになる。

誕生地の伝承が正しければ、鎌足はこの地で推古天皇22年(614)に生まれたことになります。

その鎌足が産湯に使ったとされる井戸が、神社の裏手の北側にあり、「藤原鎌足公、産湯の井戸」
と書いた木の表示板が建っています。
大原神社の脇を通って、裏の森の中へと下りて行くとその井戸があります。

但し網干氏の調査ではこの井戸は、それほど時代をさかのぼらないという結論に至っています。

 天平宝宇8年(764)に恵美押勝の乱を起こしたことで世に知られる藤原仲麻呂は、
生前に『藤氏家伝』を編纂しています。
その上巻は中臣鎌足に当てたもので、特に『大織冠伝』と呼ばれており、
『大織冠伝』には、鎌足の誕生地を「藤原第」と記してあります。
 
おそらく、この井戸でなくてもこの地に古くから井戸があり、藤の木がそばにあったことから
大原のあたりは、そのころ「藤井が原」、もしくは略して「藤原」と呼ばれており、
藤原と言う姓もこの地から名付けられたともいわれています。
藤原第とは大原の里にあった邸宅のことで、この記述を根拠に鎌足生誕地として伝承されてきたわけです。

鎌足誕生の伝承地は他にもあり、平安時代後期の作品で藤原氏の栄華を描いた歴史物語「大鏡」は、鎌足の生地を鹿島神宮のある常陸の鹿島であると書いています。
鹿島神宮の近くにはその鎌足誕生に地と言われるところに鎌足神社があります。
 

 『藤氏家伝』は、鎌足の長子定恵(貞慧)の死没地を「大原殿」と記し、
さらに鎌足の孫に当たる武智麻呂の誕生地を「大原の邸」と記していいます。
このことから、少なくとも御食子-鎌足-不比等-武智麻呂と続く藤原の邸宅がこの地にあったことはまず間違いありません。
大鏡は平安時代の書で、史書と言うより物語であり史料批判の立場からは『藤氏家伝』の方が時代も近く、こちらの記述を信じるべきでしょう。
  鹿島の地が鎌足誕生の地と広く信じられているのは、春日大社の祭神に鹿島神宮の神である武甕槌神が祭られていることが平安時代において、すでに不可思議と思われていたからでしょう。

現場に来たからと言って何が分かるわけではありませんが、やはりその地の空気を吸うことによいろいろって想念がわき、来たかいがありました。

今回は入江泰吉旧居のコーディネーターを勤められている倉橋さんを講師に
お迎えして入江泰吉旧居にてアカダマ会を開催しました。
入江泰吉旧居入り口

倉橋さんは山口出身で、もともと奈良には縁も、特に関心もなかったそうですが、
学生時代のある人との出会い。

さらには歌人橋本多佳子への傾倒から歌人へ、そして橋本多佳子の本の
出版を通して、ライター、編集の仕事との係わりから、
奈良の雑誌界に大きな刺激を与えた『あかい奈良』の編集長として活躍するまでの
半生を語っていただきました。

その後フリーの編集者・ライターとして活動する中で、
入江夫人から奈良市に寄贈されたまま、
荒れるに任せて放置されていた入江泰吉旧居を、現在のように整備し、
昨年の3月1日に公開に至るまでのよもやまの話しも聞かせていただけ、
多くのことを知ることができました。
特にこの入江泰吉旧居は入江泰吉の作品を通してではなく、
入江泰吉の人間そのものの理解の一助となってほしいという話には感銘しました。

残念ながら入江泰吉と言う人物について知る人がだんだんと減っていくのは
時代の趨勢の中でやむ終えないことではありますが、こうした活動を通じて、
後の世まで入江泰吉と言う人の人物像が語り続けられていくことは
大変意義のあることと思います。

入江泰吉はこの家に戦後から亡くなるまで住み続け、
東大寺の上司海雲師をはじめ多くの人々と交友を深めた場所です。
床の掛け軸は入江さん本人の書とか

入江泰吉旧居は月曜休み以外は入場料200円で公開されており、
特に日曜は倉橋さんが1日詰めておられるとのことですから,
機会があればぜひ訪ねてみてください。

アカダマとの係わりで言えば、私の父は上司海雲師を始め、
入江さんとその交友関係の多くの人とも親しかったようです。
私は、時代が下がって海雲師の娘さんが店の来られていたのはよく知っています。
また入江さんがなくなる数年前、ご夫婦で店に来られ
カウンターでしばらくお話しさせていただいたのが思い出です。
奈良市の中央第2武道場で今年の全国大会が開催されました。
この大会はA級とA級以下は分離され、今回はA級以下の部です。
人数的にはこの大会の方が圧倒的に多数の参加者があり、
今回も遠くは鹿児島から全国各地の選手が500人以上集まり熱戦を繰り広げました。
 引退した身としては運営に関わることもないので、大会が盛んになっていく様子を
見学だけして嬉しく思いながら帰ってきました。



ここの所何故か忙しく、前日には「ことのまあかり」さんでアカダマについてのトークイベントがあり、悪天候にもかかわらず、かって店の来ていただいていたお客さんや、
バイトをしてくれてた学生だった子が赤ちゃんを連れて参加してくれてたりと
定員いっぱいの15名に方々が参加してくださり、感激でした。
いつものことですが、終わってからは、ああ言えばよかったのに、とか反省ばかりですが、
少しは喜んでいただけていたら嬉しいのですが。
この場を借りてお礼申し上げます。
かるたにしても、アカダマにしても私にとってもう終わった事と思っていましたが
こうやっていつまでも係わりが持てるのもありがたいことです。
 

  
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奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.
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