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アカダマブログ
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町内の地蔵盆が終わりました。
関西では7月か8月の地蔵さんの縁日である24日に各町ごとに祀られている
地蔵さんを、地蔵盆としてお祀りするところが多くあります。
私の住む地域でも毎年7月23日に町内の大切な行事として地蔵盆を行います。
今年は私が当番年で、いろいろ準備があり、当日の天候の心配やら、ゲームの手配、
そして実際に子供たちが遊びに来てくれるか、ゲームを楽しんでくれるか、
色々気をもみましたが、天候にも恵まれ無事終わってホッとしています。
  ところが長年この地域に住んでいながら肝心のお地蔵さんについてはよく知りません。

 そこで、持ち前の好奇心から、地蔵様の由来について町内の方にいろいろお聞きしたところ
昔、町内の方で町の古老に聞いた地蔵様の由来についての聞き書きを小冊子にされていることが分かりました。
 
  1952年にその当時まだご存命だった地蔵さんをお祀りしてある家の当主から
聞き取った内容をまとめられたものですが、平易な文章で大変分かりやすく
書かれた興味深いものでした。
 
 
その本によれば昔、高畠に奥薬師堂と言うお堂があり、その境内の柳の堂と言うお堂に
地蔵さんが祭られていたそうです。
 ところがが何時のことかはわかりませんが、そのお堂が兵火に焼かれ、
その時に近くに住む能楽師で「そろり」と言う人が
炎の中からお地蔵さんを救い出しました。
そしてその人が寄宿していた家の床の間に安置し長らくそこでお祀りしていましたが、
やがて明治42年になって町内の有志でお金を出し合ってその家の隣に
地蔵堂を立てたのが現在の地蔵さんであり、名前も柳地蔵と言うことです。

以来100年近く町内で毎年地蔵盆には町内を挙げて地蔵尊をお祀りして
現在に至っているという話です。
 
すべては昔語り、何一つ証拠はありません。
そこで奥薬師堂が実際にあったのかを調べてみることにしました。 
『奈良坊目拙解』と言う書物があります。
この書は享保20年に、無名園古道翁が5年の歳月をかけて書き上げた奈良の郷土史です。

その書によれば、道音房と言う人が、いまは廃絶した興福寺の別院である龍華樹院を再興し
た薬師堂を道音房薬師と称し、その当時社家屋敷が入り組んだ奥の行あたりにあることから
奥薬師と称したとあります。
現在で言えば、高畑大道町の新道のあたりです。
地蔵尊に関してはそこに祀られていたか定かではありませんが、その龍華樹院の本尊が地蔵尊であったという記述があり、その地蔵尊をこの奥薬師に移した可能性があります。
以上のことから、わが町の地蔵尊が奥薬師堂に祀られていたお像である可能性は高いことが
分かりました。
炎の中から救い出した能楽師の「そろり」と言う人は調べてみましたが記録は見つかりませんでしたが、「そろり」と言う姓は曽呂利新左エ門で知られているように,姓としては存在し、今の大阪府の議員で曽呂利と言う方が実存します。

現在の地に地蔵堂が立ったのは明治42年、そしてその敷地なった家は、何と現在は川崎市に移築され、神奈川県の県指定重要文化財として保存されています。

その旧家が解体されるにあたって従来間口1間奥行き3間の建物であった地蔵堂も移築され
1間四方の建物となって今に至っています。

以上が今までに分かったことですが、もう少し町の歴史なども合わせこれから調べてみようと思っています。

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7月16日の土曜日、10時から「ことのまかり」さんで
第2回のアカダマのトークイベントが行われます。
前回2月に第1回を開催した時に来れなかった人から
是非もう一度開いてほしいとの声が多かったそうです。
 
閉店してから5年、未だに覚えていただけているだけでなく、
懐かしんでもらえるのは本当にありがたいと思います。

半面、正直私としては,”ホンマかいな”と言う気持ちもあります。
私自身のアカダマに対する認識と世間の認識にはギャップがあるようです。

先日も最近知り合った人に、あの伝説のアカダマのマスターですか?と驚かれて
 伝説のなんてと、逆に驚きましたが、また別の機会で奈良大学の先生と話をしていて、
あのアカダマのマスターですかと聞き返され、私のほうが驚いたり
昔から知っている奈良文化財研究所の人が、仲間にアカダマのマスターと知り合いだ
と言ったら驚かれたといった話もありました。

あれやこれやで、この機会に私の話を聞いていただくというより、
私が皆さんにアカダマをどう思っているか、あるいは思っていたのか?
またそれはなぜなのかと言ったことを、いろいろ話し合ってみたいなと思っています。

申し込みはことのまあかりさんのホームページhttp://www.furukoto.org/kotonomaakari/
からになります。
但し、スペースの関係で定員は12名とのことです。
 
 

今回は多聞城についての話を、講師に北村氏をお迎えして伺いました。
ソムリエ的な知識では、現在の若草中学に多聞城と言う松永久秀が築いた
中世の城があった。
そして、そこに築かれた多門櫓が近世の城郭建築の先駆けとなった
という程度の知識しかありません。
講師の北村氏は教員であった時代に若草中学にも長年赴任されていたとか。

その多聞城についてどんな話が聞けるか大変楽しみでありました。
私自身は若草中学のこの階段の下までは行ったことはありますが
中には立ち入ったことはありません。

まず多聞城を築いた松永久秀とはどういう人物であったかと言うところから
話は始まりました。


戦国三大梟雄」と言う言葉があり、日本の応仁の乱後の戦国時代に悪行・悪名をとどろかせた戦国 武将「北条早雲」「斎藤道三」「松永久秀」を主に指し、そこに「宇喜多直家」も加える 場合も有りますが、とにかくその評判はあまり芳しいものではありません。

その理由は主に江戸時代の朱子学により定着した武士の道義に基づいたものですが、
その倫理観は戦国時代共通にものではありません。

むしろ、戦国時時代を生き抜いた稀代の才覚は今テレビで放映中の真田昌行を
凌駕するものであったと言えるでしょう。
久秀は30歳ごろまでの前半生は全く分かっていません。
そのことは逆に大した出自ではなく
己の才覚だけで戦国大名にまで上り詰めたことの証でもあります。

なればこその悪評であり、信長もおそらくその才を評価するとともに恐れたのかもしれません。

こうした内容を実に詳しく話していただけ、今までの久秀に対するイメージを大きく変えさせられました。

そして多聞城についての話しですが、まず中世の城とはいかなるものか
と言うところから始まりました。

中世の一般的な城は、石垣はなく土塁で囲まれ,板葺き、板壁柱は掘っ建て柱でした。
では中世の城である多聞城はどうか?

宣教師の本国への手紙から多聞城はそう言った従来の城とは全く違ったものであることを
解き解いていきます。
いわく「城壁は白く明るく輝く白壁であり、屋根は美しい黒瓦で覆われ、その庭園は見たことがないほど美しい、世界中でこのように美しい城はない」

この言葉を裏付ける多くの資料、さらには考古学的な観点からは
発掘された瓦などの話しがありました。

そして地勢的にみると、その城は多聞山を中心に東に善称寺山、西に聖武天皇陵の丘陵を
巧みに取り入れ前面に佐保川を抱き、興福寺そして奈良の町を眼下に収めるものでした。



しかしながらこの優美で且、戦略的にも優れた城は久秀が信長に打ち負かされたことによって
取り壊されることとなりました。
しかし、その素晴らしい城は、信長も認めていた証拠に、信長の京都二条屋敷に一部移された
ことが文献資料から明らかにされます。

多聞城がいかに優れた城郭であったかは、現代の学者によっても、「近世城郭の先駆け」
「安土城のモデル」と評価されています。


久秀は奈良にとっては従来大仏焼き討ちによって悪いイメージが定着していましたが、
最近では、久秀ではなく三次側のせいであると見直されていること、さらには
奈良町の発展にも久秀が大きく貢献したこと等
今回のお話を聞いて、久秀、多聞城に対するイメージが大きく変わらされ、
久秀、多聞城に大いに関心を抱かされました。




奈良大学文化財歴史学科のOB会で今回は春日大社と春日奥山を歩きました。
 地元の毎日散歩している場所と言うことで新鮮味もないことから
参加することに迷いましたが、通信学部でお世話になった
西山先生が同行されることもあり、説明を受けながら回れることに魅力を感じて
参加することにしました。
当日は天候にも恵まれ、参加者が50名を超えるという大盛況でした。
そのせいもあり、出発時間が15分ほど遅れてしまいました。

まずは最初の訪問地である春日大社。

そこでは奈良大学出身で西山先生の教え子でもある春日大社の学芸員の
秋田さんが同行して境内を予定を上回る2時間余りたっぷりと
時間をかけて案内していただきました。
日ごろ度々訪れている春日ですが、こうして案内を受けながら見て回るのは初めての経験で
秋田さんの熱心な説明で、今まで知らなかったことをいろいろ教えていただけ参加した甲斐がありました。

最初の出発から少し遅れ気味のところ、秋田さんの熱心な説明もあり、
時間が押してきて、ここで予定の若草山の山頂までのコースを少々
変更することになり、まずは昼食の後、旧若草山ドライブウエイの遊歩道を
春日山原始林を眺めながら妙見宮を経て首切り地蔵の名でしられる
地蔵菩薩像まで歩きました。


実際は様式的に鎌倉時代の制作と思われ,荒木又右エ門とは時代が違いますから 、試し切りをした云々は、作り話でしょう。

ここからは1列にならないと通れない急な細い山道を経て地獄谷、そして春日山の石窟仏へ。
この辺は昔小学校のころ遠足にも着た場所ですが、訪れるのは何十年ぶりですが、当時とも、さほど変わってはいません

石窟に刻まれた仏像には制作年代を示す銘が残されており、
片方には久寿2年(1155)もうもう一つの方には。保元2年〈1157)とあります。



ここまでくると一同やや疲れが見えてきましたが、ここからは帰り道、下り坂になりますので
夕日観音、寝仏、朝日観音を眺めながら帰途につきました。



全行程15k、歩数で2万歩を超える一日でしたが脱落者もなく、全員無事最後の目的地近鉄奈良駅までたどり着くことができました。
最後は恒例の打ち上げ、一日の疲れをいやしました。
ほんとに各地から参加されており、多くの方が前日から宿泊して博物館など奈良を巡っていた
とのこと。
奈良大学は卒業しても皆歴史や奈良への関心は薄れることはなく、熱心に勉強されていることには感心すると同時に大いに刺激を受けました。
店をしていた時は、世間が休みだと店は忙しく、特にこのゴールデンウイークは
秋の正倉院展中と併せ1年で1番忙しい時期でした。

店を辞めた今、ようやくあちこち見て回れるのですが、皮肉にも以前見れない時には、
あれほど見たかった行事も今はあまり興味が湧いてきません。
 
しかし世間で大型連休と言って騒いでいるのに家でじっとしているのも寂しいので
5月2日の聖武祭に続いて、春日大社万葉植物園で行われた恒例の万葉雅楽会に
行ってきました。
 
 
最初は管弦の演奏、昔一緒にやっていた顔ぶれが散見でき、こうして私が舞台上でなく観客として見ているのが不思議な感覚です。

舞楽の演奏には決まりがあって最初は舞台を清める意味で鉾を持った左方舞人と
右方舞人が振鉾と言う短い舞で舞台を清めます。
通常最初に左方、ついで右方それから両社が同時に舞う三節が行われるのですが、
三節で二人が舞うのを写真にを取ろうと思って待っていたら、この日は三節は省略。
結局写真は取り損ねました。中途半端に知っているとこういう失敗をします。


子供の日と言うことで、例年必ず童舞が演じられ、最初は左方の迦陵頻、
ついで右方の胡蝶と進みます。

赤の装束は左方舞。緑の装束は右方舞。
左方は一応中国インドいわゆる唐天竺の方からもたらされた舞。
右方は朝鮮半島方面や、東南アジアからもたらされた舞となっていますが
この胡蝶は日本で出来たいわば国産舞です。

私は雅楽を始めたのが大学に入ってからで童舞を舞わずじまいでした。
何事も基礎が大切で、子供時代から始めこうした童舞から基礎をしっかり学んでおく
ことは将来大人の舞を学ぶ時にも役に立ちます。
最近は女の子も多く加わっていて時代を感じます。
舞楽の演奏では左右の舞を番い舞として演じられ、この2曲は番い舞としてセットで演じられるのが普通です。


 次いでこの日は左方舞として甘州が演じられました。
この舞は比較的短いのですが、くるくると向きを変えるので舞いにくかったものです。

次いで右方舞が答舞として演じられこの日は林歌でしたが、自分が左方舞をしていたので、
右方舞は見ずにここまでで帰りました。
雅楽をやる場合、最初に楽器は何をやるか?次いで舞は右左どちらをやるかを決めます。
そしていったん決まると雅楽をやっている限り途中で変更することはありません。
私は楽器は笛。舞は左方をやりました。
平安時代には雅楽を家職とする楽家があり、家によって楽器も舞も決まっていたようです。
その制度も明治ににはすっかりなくなり、今は宮内庁の楽部にその子孫が少し残っています。
久しぶりに2日続けて楽の音を聞き舞も見て私のゴールデンウイークは終わりです。
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