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前回まで聖武天皇を間に、その正妻である光明皇后、側室である広刀自。

そしてそれぞれの子、光明皇后と井上皇后の争いに至る背景を説明してきました。

阿倍内親王の未婚の女性として異例の皇太子即位という事態で、この争いはいちおう終わります。いや終わったはずでした。

ところが、ここで、歴史の皮肉というか、「禍福はあざなえる縄のごとし」という事態になります。未婚の女性が皇太子となり、考謙天皇となった事態で、こうなるのはわかっていましたが、後継者がなかなか決まりません。

聖武天皇が崩じるにあたって、皇位継承を、天武天皇の子新田部親王の子、道祖王(フナド)を指名し「朕が子阿倍内親王と道祖親王との2人もて天の下を治めしめんと欲す。いかに」とたずねたと言います。

しかし考謙天皇は道祖王をその地位から追います。

そして藤原仲麻呂の子真依の妻であった粟田諸姉(アワタノモロネ)を妻とし現に仲麻呂の屋敷に暮らしていた大炊王を後継者とします。淳仁天皇です。当然仲麻呂の傀儡といえます。その仲麻呂は天平宝字四年(760)恵美押勝という名を賜り、この時期の太政大臣の名である大師となり権力を握りますが、光明皇后の死、そして道鏡の出現もあり、最後は反乱をおこし、斬殺されます。

こうして前述しました光仁天皇の即位に到ります。その背景については繰り返しになりますので、ここでは書きません。

ただ、同じ聖武天皇の妃でありながら、藤原不比等の子として元明天皇から大事にするようにと送り込まれ、ついには臣下出身で初めての皇后となった光明皇后と、その子であり、未婚のまま初めての皇太子となり、ついには天皇となった考謙天皇。

その陰で県犬飼広刀自の子として、未婚のまま伊勢に斎宮として出仕し、

28歳でその任を解かれ、いわば行き所がなく止む負えずぱっとしない皇族である白壁に嫁します。

その白壁王と言えば、横禍を恐れ、酒におぼれ、酒狂いのまねをしていたと言われ政争から一歩身を引いました。

そのころ次のような童謡が伝えられています。

葛城の前なるや。豊浦寺の西なるや。おしとど おしとど。

桜井に白壁しずくや。好き壁しずくや。おしとどおしとど。

然しては国ぞさかゆるや。 吾家らぞさかゆるや。おしとど、おしとど。

 

おしトド、おしトドというのは、ハヤシ言葉。「白壁しずく」は白壁王が沈み、世を隠れている意味。

その「好(よ)き壁」が現れたら国も我が家も栄えるのにという意味。

桜井とは飛鳥の葛城寺の前、豊浦寺の西にあるという井戸で、こらは白壁王の妃井上内親王を暗示しているといわている。

このような白壁王でしたが、思いもかけず即位して光仁天皇となり、その結果、思いもかけずずっと影の存在であった井上内親王が陽のあたる皇后へと、躍り出ます。運命の皮肉といえます。

果たしてこれが幸いであったのか不幸を招くことになったのか。

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