井上皇后の廃后に至る経緯は『日本書紀』宝亀3年3月2日条によれば
皇后井上内親王、巫蠱(ふこ)に坐(つみ)せられて廃せらる。
これだけの記事で、巫蠱(ふこ)誰を呪殺したのかは書かれていない。
その根拠は実行者、裳喰咋足嶋(もくいのたるしま)の自首である。
この人物は自白によって罰せられるどころか、冠位の昇進を得ている。
このことからも、冤罪、ねつ造の可能性が高い。
この井上皇后の廃后の2ヶ月後には他戸親王も廃太子の処分もある。
同じく『日本書紀』の宝亀3年5月27日の記事にはその理由が書かれている。
その言う所を要訳すれば、
「光仁天皇は妻である井上皇后が夫を呪殺したことが1度や2度でない。
だからそういう人の子供を皇太子にはしておけない。」という。
「天皇の位は私一人の私物ではない。このままにしておけば、公卿をはじめとして天下の人間たちはどう思うであろうか。それを考えると恥ずかしいし、畏れ多い」という。
どうも妻である井上皇后が何度も夫である光仁天皇を呪殺しようとするだから、皇太子も廃するということである。
光仁天皇は妻である井上皇后より8歳上であるが、天皇は天智の孫王の一人に過ぎないのに対し、皇后は格上の内親王、聖武天皇の子であり、称徳天皇の異母の姉妹。
その結婚も既に妻子があるにもかかわらず、いわば譲位した聖武天皇が実際は光明皇后より愛していた節がある広刀自の子であり、光明皇后により伊勢へ追い出されたわが子をあわれに思い、斎宮を降り、やや婚期を逃した独身の娘の身を案じて白壁王に押し付けた嫁であった。
そいう意味で皇后には遠慮もあり、皇后自身もその意識があったと思える。つまり見下していたわけである。
言うなれば夫より私の方が、あるいは、息子である他戸親王のほうが天皇にふさわしい。と考えていた節がある。したがって夫の死を願う動機が十分にある。
夫もそれを感じていたが故の巫蠱(ふこ)の坐(つみ)であり冤罪である。
そして井上皇后は、廃皇され、子の他戸親王は廃太子となり、幽閉され、母子は同時に死ぬ。おそらく毒殺であろう。
その井上皇后の妹に不破内親王がいる。
時期は不明であるが、新田部親王の子で天武天皇の孫にあたる塩焼王と結婚している。一時、内親王の身位を剥奪されたことがあったというが、具体的な時期や事情はわかっていない。
天平宝字8年(764年)9月、夫塩焼が藤原仲麻呂の乱に参加して殺害されているが、不破と息子氷上志計志麻呂は連坐を免れている。
神護景雲3年(769年)1月、県犬養姉女・忍坂女王・石田女王と共謀して称徳天皇を呪詛し、志計志麻呂を皇位につけようとしたとして、再び内親王の身位を廃され、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)と改名させられたうえ、平城京内の居住を禁じられた。志計志麻呂は土佐国に配流されている。
宝亀3年(772年)12月、呪詛事件は誣告による冤罪であったとして、内親王に復帰している。
延暦元年(782年)閏正月、息子の氷上川継が謀反を起こそうとしたとして伊豆国に配流されたのに連坐して、娘たちとともに淡路国に配流された。延暦14年(795年)12月、和泉国に移された。以後の消息は不明である。
こうした出来事を見てもこの妹もやはり、自分の境遇に強い不満を抱いていたようである。
ずいぶん長い話になってしまったが、こうして、聖武天皇の血筋である2人の姉妹を以って持統天皇の血筋は、完全に消滅し、それと同時に奈良時代は終わり、時代は平安へと移る。
一方その持統天皇の血筋を守るため影で懸命に支えっていた藤原不比等とその子孫である藤原氏は、持統天皇の血筋が絶え奈良時代が終わっても権力の中枢から決して没落することなく、その後千年にわたって、天皇を支え続ける。
それというのも不比等が築き上げた律令制度は最早天皇が親政を行なう必要性をなくし、権威と権力を分離させていたからである。
そしてその藤原氏の氏神である春日大社も都が京へと変わった後も藤原氏の篤い信仰を受け今に至っているという話である。
昨年から引き続き、卒論のテーマである春日大社について調べていく上で、奈良時代と言う時代について、いろいろ考えたところを、書いてきましたが、この稿は今回で終わりです。
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