伊勢の神について大胆に整理すれば、3つに収斂します。
1:倭姫によって倭から持ち込まれたとされる説
2:高天原から伊勢にアマテラスが降臨して伊勢に祀られたとする説。
3:もともと伊勢に祀られていた神とする説
2,3の説は言わば神代の話、なかなか検証は難しいですが、
何故伊勢と言う土地が神祀りに相応しいかと言えば
東に海を望み日の出を海に見ることができる土地にヒントがありそうです。
天孫降臨の地として名高い日向の国も名前の通り、
東に向かうという土地の共通性がその神話の基となります。
同じ話は東に海がある常陸の国にもあり、そこから日が立つ。
常陸と言う国名の由来となります。
鹿嶋神宮の2キロ東北に高天原と言う場所もあります。
いずれにしろ、常世の国が東の日が出る海の彼方と意識されていたことをうかがわせます。
一方これは時代が少し違いますが、仏教では日が沈む西に、
西方極楽浄土があると信じられているのは面白い対照ですが、
これも4方が海に囲まれた日本と言う土地が生みだした思想と言えます。
さて。以上の2,3は諸説入り乱れて収拾がついていませんが、ここでは1の倭姫の巡幸について考察を進めたいと思います。
前にも書いたことがありますが、私の歴史に対する興味の対象は、歴史時代が主です。
それと言うのもそれ以前については資料も乏しく、
判断となる材料がモノ遺物に限られる考古学の分野となるのが理由です。
それに対して歴史時代は、ある程度の文献資料はありますが、空白部分が多く、
それが逆にいろんな仮説を可能とします。その一番の例が邪馬台国論争です。
伊勢神宮についても、神代の時代の創成伝説については資料が乏しすぎ、
逆に推論の組み立てが難しいのが実情です。
伊勢神宮の創設に関しては日本書紀に記載があります。
崇神記6年の条によれば当初、宮中に天照と倭大国魂の二神を祭っていたが、
天皇は二神の神威の強さを畏れ、天照大神を宮の外で祀ることにした。
天照大神は豊鋤入媛に託して大和の笠縫邑に祭った。
倭大国魂は淳名城入媛に預けて祭らせたが、
髪が抜け落ち痩せ衰えて祀ることができなかった。という話を載せています。
この続きの話として、よくヒミコと比定される倭迹々日百襲姫命が出てきて、
箸墓伝説が出てきますが伊勢の話ですので先へ進みます。
少し時期が飛んでいますが、多分連続している話だと思われますが、
次に垂仁紀の25年に、天照を豊鋤入姫より離して倭姫に託し巡幸の上、
伊勢に洞を立てるという話が出てきます。
これをどう読み解くかが、私なんかには、大変興味を持つところです。
まず、私が注目するところは、倭大国魂命と天照大神命が一緒に宮中に祀られていたと言うところです。
この時代の宮中と言う方には少しひっかかりますが、まあそれは置いておいて、この話はその通りに解釈すれば、国つ津神を奉じる地元の勢力と天津神を奉じる対抗勢力の争いの記事と読み解くのが妥当と思います。
天つ津神を奉じる勢力が、九州から進出してきた所謂天孫族であると言ってしまうと、
いささか先走りしすぎですから、在来の地元勢力と、そこへ進出してきた勢力と言う言い方が無難かと思います。
この2柱の神は本来的に両立しません。
どちらを取るかが重要な意味を持つと考えますが、とりあえず、
地元の神である倭大国魂の神は倭に残り、進出勢力の神である天照神はその落ち着き先を巡幸の末に伊勢と定めると言うことを日本書紀では書いていると考えます。
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