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梅木宮司の原稿を受け取ってから、高畑周辺ですぐに見れる場所、
 そして、現場が分からない場所は鏡神社にお聞きして確認して回りました。
ここからは、伝承の背景を探る作業に入ります。
お預かりした伝承の内容を検討すると、大きく3つに分かれると思います。
一つは吉備塚を中心として、清明塚や、破石、頭塔、広嗣と、奈良時代後半期
を代表する人物との係わり、さらに、陰陽師の存在をうかがわせる内容です。

もう一つは、赤穂神社を中心として、ヒメ塚、ゴリョウ塚など飛鳥、奈良時代の
 ヒメミコに関わる伝承。

さらには、なぜか平安時代の僧、俊寛に関わる伝説、その他。

これらの伝説が相互に絡まり合い、関わり合いながら伝わっており、
  高畑の伝承の奥の深さには改めて驚かされることになりました。

 ただ吉備塚は発掘の結果、大体6世紀の古墳であることが確認されており、
吉備真備の墓である可能性はないことは、わかっています。
住いがあったかどうかについては、今のところ、
それを示す資料も否定する資料もありません。

ただ、吉備塚に関する多くの伝承が、陰陽師に由来するらしいことはわかります。

この陰陽師から安倍晴明がの名前が出、鏡神社から藤原広嗣が関わり、
そこから、破石の、阿倍氏、藤原氏、吉備氏の境界の伝説が生まれたであろう
と推察されますが、それぞれの時代が違い、どれが史実か、後付けの伝承か
見極めが難しく、簡単な作業ではありません。

そこで、まず、吉備真備から学びなおす必要を感じているところに
 タイミングよく平城京歴史講座で
 
「玄昉・真備の入唐後における活躍」

大阪大学准教授で、奈文研出身の 市 大樹先生が話をされるということで
早速、聞きに行ってきました。

その資料に基づいて
 まず、真備の略歴です。

下道朝臣国勝の子として生まれ、続日本紀に
「霊亀2年(716)22歳にして入唐、留学して業を受く。
経史を研覧して、衆芸に該渉せり。
我が朝の学生の名を唐国に播す者は、ただ大臣及び安倍仲麻呂の二人のみ。」

と記されるほどの勉学を積んで、天平7年(735)20年の留唐を終え帰国します。
帰国に際しては阿倍仲麻呂と同じように唐の朝廷から引き留められたと言った話が
遺ります。
 
玄昉の生年月日は不明ですが、霊亀2年(716年)遣唐使と共に入唐。
その学才は唐の天子にも認められ、3品に準じる紫袈裟の着用を許されたほどです。
天平7年(735)帰国にあたっては仏教の経典及びその注釈書5千余巻、
各種の仏像を日本にもたらし、その功績により日本でも唐と同じく紫の袈裟を
許され僧正に任じられています。
さらには、天平9年、聖武天皇の母である宮子夫人は出産以来永い気鬱に悩まされ
常人らしい行動をとれず出産以来、子である天皇にも会ったことがないという状態でしたが
玄昉が看病するやたちまち回復したと言われています。
こうして聖武天皇、光明皇后の厚い信頼を得、さらには同じ遣唐使であった
吉備真備を通じ時の権力者右大臣橘諸兄にも重用されることになります。
このことが橘諸兄と権力争いをしていた藤原一族を敵に回す結果となり
宇合の子である式家の広嗣が左遷先の九州から玄昉、
吉備真備を除くよう上表文を提出し、それが認められぬとしるや
反乱軍を起こし、結果広嗣は撃たれてしまいます。
反乱の汚名を被って撃たれた広嗣はやがて怨霊となります。

その後権力争いの犠牲となり玄昉が築紫に配せられ
観世音寺の落成式に臨んだ時急死します。
世の人は是を広嗣の祟りし、雲の中より現れた広嗣の霊が玄昉の体をつかみ
奈良の地に飛散させ、その首は頭塔に、腕は肘塚町に、眉と目は大豆山町に
飛来させたという伝説がうまれます。
   
高畑伝承の真備に関する話は、大きく2つの部分に分かれます。
最初に吉備真備がカエルの鳴き声を封じた話。
次に吉備塚の祟りについてです。
最初の話しは吉備真備が、いかに優れた霊力を持っているか
と言う話です。
この音無し川は現在はありません。江戸時代の地図で確認すると
確かに吉備塚の北側を通り、鳴川にまっすぐ西下する川が確認できます。
ところが、鳴川町には同じような話が伝わっています。
元興寺の護命僧正が小塔院で読経の際、群蛙が喧しく鳴きたて読経を
妨げたので、神呪を唱えてこれを止めさせた。
後世、蛙の声を聞かなくなったので不鳴川と称したが、いつのまにか
誤って鳴川と呼ぶようになったといい、また、川の流れが音をたてるので
鳴川と称すと言った伝承である。
こういった地名伝承は、おそらく各地にあり、その際、法力を以て
止めた人物の名前も各地にあると思われます。

祟りに関しては、この伝承が、江戸時代以来塚の形状が守られ、
その後の連隊工事、更には進駐軍、大学などの工事の破壊から
塚を守るのに大いに貢献したように、塚を守るために生まれた伝承かと
考えられます。

こうした伝承は、陰陽師が広めた可能性が高いと思われますが、
陰陽師に関してはこれからの勉強です。
と言うわけで課題山積です。
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