category:From マスター
こればっかりは、祐介に相談しても解決できない。
こういう時はやっぱりマスターに相談してみよう。
ところが、店に行って驚いた。
当分の間休業という張り紙がしてあった。
一体どうしたんだろ?
何かあったんだろうか?
不安が湧き上がってきた。
どうしよ?
せっかくの、おん祭の音頭、でもこのままでは心配で
引き受けられない。
相談しようとしたマスターには、お店が休みで会えない。
やっぱりすぐに、人に頼ろうとした自分が悪いんだ。
練習しかない。
思い切り吹きたいから、何時もの飛火野まで行って
吹くことにした。
冬枯れの飛火野には人影はまばら。
鹿だけが草を食んでいる。
ここでならいくら吹いていても迷惑にならない。
そう言えばマスターに初めて会ったのもここだった。
もうあれから3年になる。
頭の中では色んな思いが駆け巡ったけど、
笛はひたすら吹き続けた。
こうして、高麗笛だけ練習してたらちゃんと鳴るのにな・・
ふと目を上げるとマスターがそこに立っていた。
あまりのタイミングに、びっくりした。
「そんなにびっくりせんでも、なんや化け物見た
みたいやん」
「だって・・、それより店お休みってどうしたんですか?
何にも聞いてなかったし、びっくりしました。」
「いや~ごめん、急に話が進んでな。
前から行きたいと思ってたスリランカに誘ってくれる
人がいて、この機会を逃したらあかんと思って、
急に決めたんや、明日出発で、準備もあるから
今日から休みにしたのや」
「そうなんですか・・急に休みやからなにかあったん
かって心配しました」
「わるいわるい。今暇な時期やし、思い切って行かんと
2度と行けへんかと思って。
そんで、あらかた準備も終わったし、暫らく日本を
離れるから、なんとなく大好きな飛火野をもう
1度散歩しとこと思って、それに、ひょっとして奈美ちゃんに会えるかもって、なんとなく思ったし」
「そうですか、嬉しい!!今日店に行ったんですよ。
ちょっと教えてもらおと思って」
「どうしたんや?」
「高麗笛、音が出ないんです」
「なんで?今聞いてたけど、ちゃんと出てるやん」
「それが、主笛吹いて続いて高麗吹いたら
でえへんのです」
「ふ~ん。ともかく吹いてみ」
「ちゃんとでてるやん」
「う~ん、どうしてかな?いっぱい主笛吹いた
後やったらでえへんのやけど・・」
「そしたら、主笛まず練習してみ、そや陵王吹いてみ」
「はい」
わたしも陵王は大好きな曲。思い切り吹いた。
「そしたら、納曾利や」
「あ、出ない。どうしてやろ」
「わかったで」
「え、原因わかったんですか?」
「大事にしすぎというか、高麗が出ない恐怖感があるから、歌口に当てるとき、今まで吹いてた感触を大事にしすぎて、主笛のまま唇を当てるからや」
「え、同じところやったらあかんの?」
「うん、ほんの少しやけど、大体笛の太さも、歌口の大きさも違うねんから、まったく同じではあかんねや」
「ほんの少し上、そう、そしてもうほんの少し唇をかぶせて」
「あ、出ます。ちゃんと出ます。ほんまやわ。
何でこんな簡単なことが気いつかへんかったんやろ」
「笛なんてそんなもんや、ほんの少しのことなんやけど、
自分では正しいと思てるから修正でけへんのやな」
「ありがとうございます。助かりました」
「うん、その感触忘れんようにしいや」
ちょっと笛かしてくれへんか?なんか笛を吹きとなった」
「はい、どうぞ。そういえばマスターの笛の音聞かせてもろたことないですね」
「そら、店では吹けへんしな」
しばらくマスターの吹く蘭陵王の笛の音に聞きほれた。
同じ笛から出てくる音とは信じられないぐらい音が違う。
こんなにも違うものなのか。
音量も音色の艶というか音の色というか、
全然自分の吹く音とは違う。
ほんとに圧倒された。
正直自分では随分うまくなった気がしていたが、
この音色を聞いた後では、恥ずかしい。
まだまだ練習しなくちゃ。
「いや~久しぶりに吹いたから頭がくらくらする、
そやけど、こういうとこで吹くと気持ち好いな。」
「マスター、前から聞きたかったんやけど、
どうしてやめはったんですか?あ、娘さんのことは
聞きました。
せやからっていうて、好きやったらやめることはないと
思うけど」
「そうか、聞いてたんか。そら雅楽のせいやない。
皆、自分が悪いんや。
せやけど、だからというて、原因の笛を吹く気には
長いことなれへんかった。
20年近い歳月が必要やったんやな~。
もちろん、今でも自分を許すことはでけへん。
でも、だからと言って雅楽まで否定することはないと
思えるようになったんは、奈美ちゃんのおかげや」
「え、わたしの?」
「初めて会ったんも、ここやったな~。
あの時笛を吹いてる奈美ちゃんを見たとき、
何故か娘が生まれ変わって笛を吹いてる気がしたんや。
そんなことありえへんとはわかってるけどな。
そやから、始めて会った時、いきなり声を掛けてしもて、
そんな自分にうろたえて、きついい方になってしもたんや」
「そうやったんですか」
「奈美ちゃん、ありがとう!奈美ちゃんに出会えてなんかふっきれた。そして笛も吹く気になれた。
ほんとに感謝してる。」
「感謝なんて、こちらこそありがとうございました。
マスターに出会えなかったら、ここまでこれなかったと思います」
「そや、笛、何時までもプラ管ではあかんな。
今聞いてたら随分うまくなったし、息も強くなってる、このままプラ管吹いてると、笛に吹き込む息の量がプラ管に合わしてしまうようになる」
「そうは思うけど、高すぎて手がでないんです」
「そうやな、学生が買うには高いもんな、そうや、
今度帰ってきたら渡すものがある。楽しみにしといて」
「え、なんですか?嬉しい!スリランカのお土産も頼みますね」
「よっしゃわかった、さ、もう行くは、明日は、早いんね」
「ほんとにありがとうございました。もう少し練習しときます」
「そうやな、おん祭、頑張ってな、僕はいけないけど」
「はい、頑張ります」
おん祭前の最後の総稽古がそれから2,3日してあった。
今日で最後の稽古だから本番にあわせて舞いも稽古が進んでいた。
一通り平舞が終わって、走り舞(一人舞い)の稽古に移った。
最初は蘭陵王。
その時思いもかけず、笹山さんから声がかかった。
「春野、おまえも一緒に舞ってみ」
「え、私が陵王をですか?」
「そや、大木さんから1度見てやってくれって頼まれてるねん、うん、横に並んだらいい」
まさか、まさか、私が陵王の稽古をつけてもらったのを笹山さんが知ってるなんて。
そして今、おん祭の稽古のときにその舞を見てもらえるなんて。
それを聞いたときに、心臓が早鐘のようになりだした。
のども一気にからから。
どうしよう、足ががくがく震えている。
容赦なく太鼓が鳴る。
でもこれがどれだけ重要なチャンスかということは良くわかる。
いまここで立派に舞い終えれば、認めてもらえる。
この機会を絶対無にしてはいけない。
それが大木さんに対する恩返しにもなる。
負けるもんか。
隣で舞う宮本さんに合わせて動き始める、
でも足の震えはなかなか収まらない。
でも、倒れたって好い。頑張る。
出る手、1帖、2帖と舞ううちにようやく足の震えは収まってきた。
冬だというのにもう顔は汗でびっしょり。
乙女としては気になるところだけど、今はかまってはいられない。
ようやく出る手が終わる。
ここで陵王音取。
ようやく一息つける。
次に当局。
胸のどきどきは収まり、足の震えもなくなった。
体が自然に動くようになった。
隣で舞う宮本さんもまったく気にならない。
ひたすら無心で舞い続ける。
気がつけば入る手。
終わった。2人で手を着いてお礼。
「う~ん、よう覚えたな。最初は硬くてどうなるかと思ったが、良く動けてた。うん、りっぱなもんや。ねえ楽頭」
「せやな、これやったら、機会があれば舞わせてもええな」
「ありがとうございます」
「よっしゃ、次いこうか」
次はいきなり私の音頭が回ってきた。
ほんとなら最後なんだけど、納曾利と落蹲は同じ曲だから、稽古も2つの舞を同時にやってしまう。
そこで、音頭は私。
休むまもなく、笛を吹かなければいけない。
でも、ラッキー。
もう大丈夫とは思うけど、主笛を吹かずに高麗笛なら失敗することはない。
小乱声を吹き出す。
舞をした後では緊張感は今はまったくない。
音もスムースにでた。
気持ちも余裕があったので、自分でもうまくふけた実感がある。
曲が終わっても、何も言われず次の散手に進んだ。
要するに問題ナシということだ。
良かった。
それよりも陵王の舞を認められた高揚感がまだ続いていた。
稽古が終わって帰り道、山中藍子が一緒だった。
「奈美、凄い、何時の間に陵王なんて、覚えたん?びっくりした」
「わたしもまさか今日舞えるなんて思ってへんかったけど、前に言ってた喫茶店のマスターに教えてもらってん」
「いいな~そんな人にめぐり合えて、まあ私が教えてもらってもおぼえられへんけどね,そう言えば奈美、院に行くって?」
「うん、東京へ行くことになってん」
「そうか、わたしは就職は大阪や、来年はもう会えへんね」
「そうやなね、藍子はいいよね、奈良にいてるから、雅楽続けられるし」
「そうやけど、わたしは続けるかどうかわからへん。
学生時代だけでいいかなて思ってる」
「もったいなんや、せっかくやってきたのに」
「なんか私にはあってないんかも、あんまり稽古も
熱心やなかったし、私が残って奈美が出て行くって
皆残念がってるよ」
「そうかな、せいせいしてるんちやう」
「そんなことないよ、佐藤君なんて1番がっかりよ」
「え~佐藤さん。まさか」
「気いつかへんかった?佐藤君、奈美ちゃんのこと好きなんよ」
「え~うっそ、それはほんまに気がつかんかった。
なんか結構いじわるやったけど、なんか小学生見たい。
でも残念でした、私はまったく気がないし」
「かわいそ、そうあっさりふられたら」
「私には東京に彼がいてるねん」
「やる~。それで東京か・・」
「それは違うよ、たまたま」
「まええけど、でもとにかくうらやましい、笛はうまいし、
舞もできるし、おまけに彼もいてるなんて、良すぎるわ」
なんておしゃべりしながら家に帰ってお風呂に入って、
家族と一緒にテレビのニュースを何気に見ていたら。
日本人がスリランカで事故死したというニュースが伝えられた。
え、スリランカ?
まさか??そんなことないよね。
名前もまだわかってないらしい。
今までの高揚した気分がいっぺんに冷めていった。
祐介にも電話したが、祐介にもまったく情報は入っていなかった。
ただスリランカ行く前に電話で話をしたとのことだった。
その夜は不安で寝れなかった。
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