忍者ブログ
アカダマブログ
[4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9]  [10]  [11]  [12]  [13]  [14
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

今回は元興寺文化財研究所主催の現地学習会に参加しました。
しかし最近どうも私の天気運が悪く、今回も雨。
おまけに参加者定員は20名と聞いていたのに、ふたを開けると
倍以上の大人数。
少人数でゆっくり話が聞けると思って参加したのに当てが外れました。

今回の現地学習会のテーマは玄昉です。

一応玄昉について少し書いておきます。
玄昉の生年月日は不明ですが、霊亀2年(716年)遣唐使と共に入唐。
その学才は唐の天子にも認められ、3品に準じる紫袈裟の着用を許されたほどです。
天平7年(735)帰国にあたっては仏教の経典及びその注釈書5千余巻、
各種の仏像を日本にもたらし、その功績により日本でも唐と同じく紫の袈裟を
許され僧正に任じられています。
さらには、天平9年、聖武天皇の母である宮子夫人は出産以来永い気鬱に悩まされ
常人らしい行動をとれず出産以来、子である天皇にも会ったことがないという状態でしたが
玄昉が看病するやたちまち回復したと言われています。
こうして聖武天皇、光明皇后の厚い信頼を得、さらには同じ遣唐使であった
吉備真備を通じ時の権力者右大臣橘諸兄にも重用されることになります。
このことが橘諸兄と権力争いをしていた藤原一族を敵に回す結果となり
宇合の子である式家の広嗣が左遷先の九州から玄昉、
吉備真備を除くよう上表文を提出し、それが認められぬとしるや
反乱軍を起こし、結果広嗣は撃たれてしまいます。
反乱の汚名を被って撃たれた広嗣はやがて怨霊となります。

その後権力争いの犠牲となり玄昉が築紫に配せられ
観世音寺の落成式に臨んだ時急死します。
世の人は是を広嗣の祟りし、雲の中より現れた広嗣の霊が玄昉の体をつかみ
奈良の地に飛散させ、その首は頭塔に、腕は肘塚町に、眉と目は大豆山町に
飛来させたという伝説がうまれます。
 

 

 
  今回の現地学習会はこのうち、眉目が飛来したという大豆山町、
胴体が埋められたという胴塚、そして眉間寺を訪ねます。
 
講師は元興寺文化財研究所の狭川副所長。

最初に訪れたのは念仏寺。
一般に山の寺の通称で知られています。
袋中上人が伏見城代松平定勝から扶持を受け堂宇を建立したとあります。

やすらぎの道を漢国神社を素通りして東門から入りましたが、
 奥で開化天皇陵と接しています。
塀越しの見えるのが開化天皇陵で、かってはこの御陵も境内であり、
袋中上人がこの陵の中腹に庵をむすび
山を眉目山と呼んでいたそうです。
ここでまず最初の玄昉眉目山が出てきます。

次に訪れたのが大豆山(まめやま)にある崇徳寺。
このお寺の裏庭に玄昉の眉目塚があります。

この祠や五輪塔は後世のもので、今回の目的は見たところ
何の変哲もない、やや小高くなった塚らしき小山です。
これが今回の玄昉ゆかりの眉目塚だそうです。
ここから方向を北にとり、東大寺の転害門を目指します。

東大寺の西大門と八坂神社の中間あたり、街の片隅に
この玄昉胴塚があり、その場所に弁財天が祀られています。
 

そこからさらに北、今度は多聞城跡を訪ねます。
この小高くなった崖の上がかって多聞城が築かれたところです。


  
 最後の訪問地、聖武天皇・光明皇后陵はこの多聞城と
連なっています。
しかし目的はこの御陵ではなく、かって聖武陵を弔うために
あったという眉間寺です。
現在は御陵への参道となっていますがこの道は実はかっての眉間寺の参道で
現在の聖武陵の中腹に眉間寺がありましたが、明治の廃仏毀釈で
現在は跡形もありません。

こうして玄昉の体がばらばらになって飛散して落ちたと言う
伝説の地を回りましたが、なぜこういう伝説ができたのか?
その理由を今回の講師である狭川氏はこう解釈しています。
今回の見学会では訪れませんでしたが元興寺の研究所のある場所が、
体の内、腕が落ちたという、肘塚町、
そして玄昉の頭が埋められているという伝説がある頭塔。
更にまだ確定できていませんが、もう1か所西城戸にある厳島神社。
今回の訪問地である眉目塚、胴塚と合わせ5か所、これを線で結んだ
結界を作ったという説を唱えられています。
どいう結界かと言うと、興福寺の周りを取り囲み、
興福寺を怨霊から守るというわけです。
この5か所を線で結ぶと丁度興福寺の中心である中金堂あたり
になります。
怨霊思想は一応奈良時代にはまだなかったと言いますが、
この結界はおそらく平安時代に入ってからと考えられます。
大変興味ある考え方ですが、まだ確立されたわけではなく
これから一層の検証が必要で今回の見学会でまた新たな課題が見つかりました。
PR
10月21日に以前から計画していた春日社の足跡を辿り、
桜井の安倍山をアカダマ会で訪ねました。
案内はやはりソムリエで桜井在住のS氏にお願いしました。
当日は折から台風接近も伝えられあいにくの雨、
それにもかかわらず東京からもソムリエのF氏さらに
私の奈良大学の同級生も加わって総勢8名が雨中を出発。

最初におさらいですが、春日大社の祭神は
武甕槌神(常陸国・鹿島の神)・経津主神(下総国・香取の神)
天児屋根神(河内国・枚岡の神)・同比売神


天児屋根神・比売神は中臣氏の祖神とされ中臣氏・藤原氏の氏神である春日大社に
お祀りされるのは当然ですが、なぜ鹿島から武甕槌。香取から経津神が
招かれているのかについては諸説あり定説はありません。

その中で有力な説が3あります。

一つは鎌足が鹿島の出身であるという説です。
これは一般的に大変分かりやすい理由であり受け入れやすい説であることから
平安時代に書かれた「大鏡」にもそのように書かれ、鹿島には鎌足神社すらありますが、
残念ながらこれを肯定する史料的な裏付けはありません。

二つ目は中臣氏系図に初代と比定される中臣黒田が鹿島出身であるという説。
仏教導入を巡る争いの中で中臣本宗家が滅び代わりに鹿島出身の黒田が
本宗家を継いだということです。
同じく物部氏もこの争いの中で本宗家の交代があり、支族である石上氏が本宗家を
継いでいますから説得力はありますが、これも確実な裏付けとなる資料がありません。

三つ目は

 

不比等の子宇合は養老3年(719)安房・上総・下総の三国を
管する按察使であり、同時に常陸守でもあった宇合は
陸奥国の海道蝦夷の持節大将軍としてタケミカヅチの神を
従軍神として帯同しこれを平定したとあります。
これにより宇合は奈良に在っても鹿島の神を厚く敬いお祀りをし、
その死後は同じく藤原氏の娘である光明皇后が鹿島の神を引き続き
皇后宮でお祀り、されには光明皇后が亡くなった後
その娘である称徳天皇が皇后宮で祀られていたそれらの
神々を春日大社にお遷ししたという説です。
この説に関しては、直接裏付けられる資料こそありませんが、
この説を支持する傍証がいくつかあり、かなり有力な説です。
 
 
以上のように鹿島・香取の神が春日大社に祀られる理由は
定かではありませんが、今回の見学会の目的は
 春日の社家である大東家に伝わる『古社記』に書かれているように
鹿島・香取の神が春日社の創設にあたって鹿の背に乗ってはるばる奈良の地に入り、
まず足跡を記したとされる安倍山を訪ねることにあります。


『古社記』

 

「常陸の国のお住まいより三笠山に移りますの間、鹿を以って御馬となし、
柿の木の枝を以って、鞭として御出あり。

 

 

先ず神護景雲元年六月二十一日伊賀の国名張郡夏身郷に来着す。

一の瀬という河にて沐浴しおはしますの間、鞭を以ってしるしとなし、
くだんの河辺に立ち給う。
則樹となりて生付きおはんぬ。
そこより立ちて、同国のこものふ山に渡りおはす。数か月居御す。

その時時風、秀行等に焼き栗を各々一つ給ひてのたまう。
「汝等子孫に到るまで、断絶なく我につかうべくんば、
その栗植うるに必ず生付くべし。」


よって仰せに従いて植うるに、すなわち生付きぬ御わんぬ。
是より始めて中臣の植栗連ともうす。

同年十二月七日大和の国磯上郡安部山の御座す。」



最初にこの中臣の植栗連ゆかりの神社を訪れました。
今回のガイド役S氏が我々を案内してくださったのが
十ノ森神社。

S氏によれば、今は上の庄集落の南西端にある植栗神社は
明治7(1874)までは三十八社神社と呼ばれ
十の森にあった春日神社を合祀(移転)したものでその際に名まえも
植栗神社と改められた可能性があるとのこと。
十ノ森は上つ道に接し付近には字、江繰(えぐり)も残されている。

この「くり」という言葉はキイワードでもあります。

鹿島からお供してきた中臣時風。秀行が道中植栗という名を神よりいただき
春日社の社家の始まりとなるわけですが、植栗神社の祭神は植栗王とされます。
続記に和銅2年(708)従七位下植栗物部名代に植栗連の姓を賜うとあり、
植栗連大中臣同祖と『姓氏録』にあります。
『神名帳考証』は用明天皇第三皇子植栗皇子とされて、
鹿島からお供してきたとされる植栗連との関連は不明です。
さらには
中臣殖栗連「続日本記』天平十一年(七三九)正月一三日条
「无位中臣殖栗連豊日を従五位上に叙す。」

という記事があり、768年以前に植栗連が存在したという記事が散見されます。
 『古社記』の記事によれば鹿島から神が御動座される途中に
賜ったはずの植栗連という姓のはずですが、それ以前にこうして登場しており、
 社伝との整合性についはさらなる研究が必要です。
 
  
これが十の森神社で由来を聞かなければ
全く注意をひかなかったことでしょう。
 
次にここより雨の中徒歩で10分ほど歩いて、
上の庄の集落にある植栗神社へ移動しました。
境内には東より入り社殿は南面しています。その社殿の右奥に土塀に囲まれた
春日社があります。

    

この植栗神社の存在が『古社記』の記述を裏付けるものなのか
判断は難しいところです。

ここから雨の中30分ほどひたすら安倍地区を歩き、
次に
今回の最大の目的地である阿部山へと向かいます。

そこで、ガイドのS氏がここに上りましょうといきなり登り始めたのが
なんと墓地。

この丘陵は墓地のために造成されたのではなく自然の丘陵の上に築かれたもので
形状はかなり周りを削られて変わっていますが実はこの小高い丘こそ
条里図にある神宮山(しんぐりやま)なのでした。

その上からは周囲が見渡せ、目の前には安倍文殊院の森があり、
南には安倍寺跡、はるかに畝傍山も見えます。
まさにこの辺り一帯が安倍山。
現地に来るまでは、私は安倍山と言う小高い丘があるものと
思っていましたが、独立した安倍山という山はないということ。
やはり現地に来なければわからないものです。

この丘を降りたすぐに、やはり条里図に書かれた字榎本、3本柿があります。

これが榎本・3本柿の字名を持つ土地ですが、案内がなければ
気にも留めなかったことでしょう。
「古社記」に謂う安倍山、そして鹿島神宮を伺わせる神宮山、
読み方がしんぐりと、ここでも栗が出てきて、字榎本、柿。
この場所こそ、鹿島の神が最初に到着されたと言われる場所なのでしょうか?
伝承が有名になれば逆に後付で命名されるケースもままありますが、
平城旧跡で土地の人が長らくダイコクの芝と呼んでいた場所が後に
大極殿跡だと確認されたように伝承名を決して軽んじてはいけません。
この土地の前を走る道の西は安倍文殊院。東は藤原宮大極殿跡。
安倍文殊院の場所も安倍山。
さらにこの辺り一帯は古代の宮が多く築かれた磐余の地。
神武天皇もその名にカムヤマトイワレヒコと、イワレを含み
更に鎌足の祖父も中臣磐余とその名に磐余があり、藤原宮は
その名前は土地名が藤原であることから来ており、
その近くは藤原一族ゆかりの大原の地。
そしてこの辺り一帯は安倍氏ゆかりの土地。
御蓋山と、安倍山の土地交換の話。榎本神社。
まさに妄想は広がるばかりです。

帰り道は長門池、石寸山口神社、土舞台を経て、磐余若櫻神社を
雨中訪ね回りました。

 

今回磐余の地を訪ね春日大社の創建に対し果てしなく想像は膨らみますが、
この地に立てたことが今回の最大の収穫でした。
そして桜井駅に到着する前、この地区の人達が奉納した市街地に立つ珍しい
勧請綱をくぐって解散となりました。
台風の近づく中、皆無事に歩きとおし、実に有意義な一日でした
雨の中熱心にガイドをして頂いたS氏には本当に感謝です。





 今回のアカダマ会は、まず春日寺と思われる遺構を見ることで、
香薬師堂については場所が離れているので、
事前には行くかどうか決めていませんでしたが、
午前中に春日寺遺構、白毫寺、宅春日神、社新薬師寺、鏡神社と見て回って
午後2時。
皆さんに意見を聞いたところさすが奈良ソムリエの皆さん、
行きましょうということで、それから柳生街道に入って香山堂を目指しました。
ただ正確には場所はわかっていませんでしたので首切り地蔵を過ぎてから
かなり柳生街道をさ迷いましたが、ようやく高山神社にたどり着きました。


高山神社前の水船。正和4年(1315)奉納
「東金堂施入高山水船也」との銘文があります。
当時、興福寺は東西両金堂衆に春日山を管理させており
この辺りは東金堂衆大乗院門跡の管理するところでした。
この高山神社の近接して式内社の鳴雷神社があります。
その前には猿沢池に采女が身を投げた不浄を嫌って
猿沢池の主の竜王が春日山の高山に住処を定めたという竜池があります。
 
 
そこからも尚あちこち行きつ戻りつしながらようやく
それらしき場所にたどり着き、なお尾根を上りきったところ
にやや平らな場所があります。
 

苦労した分ようやく香山薬師堂跡を見つけたときは喜びも大きかったです。

この辺りが堂の建物があった場所です。
近くからは奈良時代初期の瓦が見つかります。
 
香山堂に関してはこのブログで3月16日に書いていますので、
今回は書きませんのでそれを参照にして頂ければと思います。

さて今回のフィールドワークを通じて考えさせられたことは、
この香山堂と言い、新薬師寺、春日寺が何故かくも衰えてしまったか?
奈良大学で論文指導にあたっていただいた先生に何度も言われましたが
史料の裏付けのない論文は小説だということ。
その意味で私の見解は小説ですが、桓武天皇の無作為の作為ということです。

奈良時代は天武系、平安時代に入って天智系に変わったという説。
これは私に言わせると、桓武天皇のプロバガンダ、あるいは当節はやりのフェイク
に乗せられた結果と思います。
このことは折に触れ何度も書いていますので繰り返しになりますが、
奈良時代は天武系というのは全く当てはまりません。
まず天武天皇の長子であり、壬申の乱の功績者である高市皇子が
母の生まれが尼子娘という地方豪族であるためという理由で皇位についていないこと。

同じく、天智天皇の娘太田皇女から生まれた年長の大津皇子が皇位につかず
鵜野讃良皇女の子草壁皇子が皇位についたこと。
この2点だけでも明らかですが、奈良時代はこの持統天皇の血筋につながるものだけが
皇位についてます。
天武系だから行為を継いだのではなく持統天皇の血を引く皇子のみが
次々と皇位を継いだ持統系というのが正しいのです。

それではなぜ世に天智系という言われ方がしたかと言う理由は、
桓武天皇の生まれの卑しさ故、自らの時代は前の奈良時代を引き継いだのではなく、
全く新しい新政権であると言うアピールをしたからにほかなりません。
それが天智系の復活であるというわけです。
丁度トランプ大統領がオバマ大統領の事績をことごとく否定するように、
桓武天皇は奈良時代の歴代天皇の事績を無視していきます。
遷都の理由の一つが南都の寺の影響を逃れるためと言われますが、
むしろ南都の寺の勢力を弱めるためと言い換えられると思います。
結果、藤原氏の氏寺である興福寺や春日大社のような有力な豪族や勢力の
後ろ盾のない寺院は衰えていきます。
こうして光明皇后ゆかりの香山堂、新薬師寺また聖武天皇に関わりのあったと思われる
春日寺は寺勢が衰えるに任されます。
白毫寺は天智天皇の第7皇子であり、桓武天皇の父である志貴皇子の山荘跡を皇子の没後、
霊亀元年(715)に元正天皇の勅願により寺院として創建されと言われますが
その白毫寺ですら決して例外ではないようで、平安時代に入って保護されたという
気配はありません。
かくして、香山堂や春日寺も荒れるに任されたと言うのが私の考えです。

奈良女子大の竹内 亮氏の研究によると、
春日寺に関する資料はわずかしかなく

1「日本文徳天皇実録」

延暦7年(788)に護命という僧が
涅槃経の請説を行ったという記事。

2 東大寺薬師院文書に出てくる土地の売券記事に
  春日寺田に関する記事が見れるこの
2点のみです。

1の資料により春日寺が8世紀末にある程度の寺格と規模を有する
 寺であった事が確認できます。

2の資料により春日寺が存在した場所が特定できます。

春日寺田地は添上郡春日郷「春日里」京東55里の地にあったと考えられ、
古代において「春日」と称された土地の中心部にあたると考えられます。


古代の寺地の多くは寺辺に寺地を取り巻くように存在したことが知られています。

一帯には「堂の前」、「ノボロウ」(登廊?)、「金芝」(金堂ノ芝)、「御門」、

「ブタイ」等、寺院伽藍を想起させる小字名が分布していたとのことです。

 現在もその地には土壇跡が確認でき竹内氏が
2007年に
現地調査した時点でも多数の瓦辺を確認したとのことで、
その瓦から建物は奈良時代のものと推定され、
 中世に至るまでに火災によって廃絶したものと推定されています。

 

『続日本記』

元明天皇は天平勝宝2(750)2月「春日酒殿」に行幸し、
 遣唐使の帰船と共に来日した唐人李元環に外従5位下を授けている。

酒殿は酒を醸すための建物で、これが離宮に付属していたものか、
春日寺の施設かは不明で、
春日社創設以前の春日社の存在を示すもか
とも考えられています。



 

『続日本記』

 光仁天皇の皇女酒人内親王、母は聖武天皇の皇女井上内親王が
 伊勢斎王
に卜定され、春日斎宮に権居した。という記事があります。

春日斎宮とは斎王が伊勢に下向する前に潔斎するためのが施設で、
この場所が果たして春日寺?あるいは春日離宮かは不明。

又「性霊集」の酒人内公主遺言に春日院において77日の経を
転読すべき場所としてみえる。

この春日院が春日寺と同じなのかは議論がありますが、
酒人内親王は志貴皇子の子である光仁天皇の子であり、
しかも聖武天皇の皇女である、井上内親王の子でもあることから
高円離宮でも春日離宮でも関係は深い人物です。


前置きの方が長くなりましたが、今回の目的地は高円高校の西側の
田が広がる場所です。
遠く御蓋山が北に臨まれますが、何時もの西から東を見た風景と違い
御蓋山の山容がはっきり見て取れ、古く和爾氏を始め古代の氏族が
南から拝礼した理由が感じ取れます。
そして従来飛火野を中心に考えていた春日野というイメージが、
既成観念にとらわれていたことも実感できました。
この場所からは遥か平城宮が一望でき、風光明媚な高燥の台地で
如何にも離宮が置かれたことが納得できる地域であることが肌で感じられます。

問題の土壇は右手前の草が茂った場所です。
予備知識がなければ何の変哲もないただの土の盛り上がり。
この場所が古代の寺院跡などとは想像もできなかったでしょう。

別の角度からで奥の叢です。
この場所に古代瓦が散乱しています。
 
この場所が奈良時代の何らかの建物の土壇であることは間違いありません。
ただこれだけで、直ちに春日寺跡と断定するには資料が不足で、
これからの研究を待たなければいけません。
しかし多くの文献がしめすようにこの御傘山の南の春日野台地が
聖武天皇、志貴皇子とゆかりの場所であり、いかにも離宮が置かれるに適した
場所であるという確かな実感は得ることができました。

我々は次の目的地、香山寺跡を目指します。

 

白毫(びやくごう)寺は天智天皇の皇子、光仁天皇の父志貴皇子の離宮を
 寺としたと伝えられています。

志貴皇子(668~716)はその子光仁天皇が即位した宝亀元年(770)に
 「御春日宮天皇」の尊号を得て田原西陵に埋葬された。

和銅元年(708)9月には元明天皇が「春日離宮」に行幸しており、
 この時志貴皇子は三品の位をもらった。

 しかし、志貴皇子はその後、官僚としては目立った実績はなく、
 政治よりは万葉歌人として知られる文の人でした。

万葉集巻1 51

 采女の袖吹きかヘす明日香風

都を遠みいたずらに吹く

 

万葉集巻2 霊亀元年秋9月、志貴皇子の薨リましし時の歌

 高円の野辺の秋萩いたずらに

咲きか散るらむ見る人無しに

 三笠山野辺行く道はこきだくも繁(しじ)に荒れたるか久にあらなくに

  高円の尾上の宮は荒れぬとも立たし君の御名忘れめや
 
この志貴の皇子の離宮が春日の宮と呼ばれる離宮ですが、
その存在を示す資料は乏しく、歌の中ぐらいで高円山の麓に
あったことぐらいしかしかわからず、場所も時期も不明です。

今回のアカダマ会は私が、奈良女子大の竹内氏の論文を読み
春日寺の存在を初めて知り、春日寺とはどういう性格の寺なのか、
春日離宮と高円離宮との関係は?と、多くの疑問が持たれどうしても
現地を訪れたく実現したものです。

 

 

 

カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
フリーエリア
最新コメント
[04/21 あき]
[12/09 宮前 英明]
[06/28 大石孝]
[11/08 千鳥祐宣]
[08/10 こちずふぁん]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
マスター
性別:
男性
趣味:
歴史
自己紹介:
奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.
バーコード
ブログ内検索
カウンター
カウンター
アクセス解析
アクセス解析
Copyright © akadama All Rights Reserved.
Powered by NinjaBlog
Graphics by 写真素材Kun * Material by Gingham * Template by Kaie
忍者ブログ [PR]