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さて、春日社の神官は当然社家だけというわけではありません。
ざっと200人以上の神官が春日社にはいました。
その中で社家は、会社でいえば、いわば役員クラス。
そこで実務をこなすのが禰宜と言われる神人です。
社家には大東家と辰市家さらにそこから若宮社の創設と共に分離した千鳥家、
更に神祇官の大中臣家があると言いましたが、禰宜以下の神官も
その3グループに分れ一種の座を構成していました。
大東・辰市家を中心とする春日社の参道に居を構えたことから
南郷と言われた南郷社家グループ。
参道の北に居を構えたことから北郷と呼ばれた大中臣北郷グループ。
更に若宮社のグループの3グループです。
それぞれに社家と禰宜が属していました。
社家に対して禰宜家はいわば実務を担当する部課長クラスと言っていいと思います。
神人(禰宜)の最重要職は常住神殿(しんでん)(もり)で南北郷各一名が世襲し、
これがいわば部長クラス。

  南郷常住家は名に春が尽き采女を世襲する梅木家。
その他に梅田、藤馬、山田、丹坂、酒殿等の諸家が南郷に属しており、
元禄年間には百二十三家、幕末でも三十二家が髙畠に居住
北郷常住は、名に守がつき宮内を世襲する大宮家。
他に藤林、榊原、榊、坂木、藤間、秀能井、久保、など慶長の頃で一八人、
元禄で百七十人、幕末で二十四家が高畑に居住。

 

若宮禰宜では常住神殿守を勤める若宮家。

若宮上番は若宮神主の傍系で名に宗が付き若宮縫殿と号し、
下番は南郷常住の分家で、やはり名に春が付き和上谷宮内を号した。

和上谷家他、若宮宮内、拝殿、櫟木、池上、中垣、藤枝、辻井を含めて
元禄期で九十二人、幕末で十四家が高畑に居住していました。

 

社家は職が家ごとに移るのに対し、常住神殿(しんでん)(もり)は世襲であることから、
故実に詳しく社家を補佐し社務の要となったが、身分的には社家と厳格に区別された。

神殿守は各神人座の上﨟六名で、旬祭を始め恒例臨時の祭典に御供役を勤仕し
全ての課役を免除されていました。


禰宜の仕事としては社家の下に社頭の警備や神事の助役、祈願を奉仕したり、外院小社の神主に任じられました。
常住神殿守は氏長者から補任され、神殿守らの禰宜四五家が一五五二石の禄を配分していました。
その他に禰宜の活動で大事なのは御師活動で、春日大社への寄進の取り次ぎをします。
その活動の様子が分かる証拠に灯篭の竿の裏に刻まれた取次ぎをした御師の名前があります。

 春日社では社家と禰宜家は厳密に区別され、それがまた北郷禰宜
南郷禰宜、若宮禰宜と区別されていました。
大中臣系の北郷社家・禰宜家は神祇官から任命されてきたいわば中央から
地方に赴任したエリート官僚。
従ってプライドは高く、中央の摂関家との関係をなにかと誇示しました。
それに対し、若宮系を含む中臣系の社家・禰宜家は鹿島香取から
春日社の創建にさいし神に従って奈良に来たという由緒を誇って互いに
いわば勢力争いを繰り広げてきた歴史があります。
 藤間家は北郷に属し北郷の神殿守を勤める家柄でした。
仁和元年(885)に大柳生庄・坂原庄・邑地庄・小柳生庄の神戸四箇郷が関白藤原基経の荘園となっていましたが、長暦二年(1038)、宇治関白頼道が四箇郷を藤原氏の氏神である春日神社に社領として寄進し、小柳生庄は大膳永家をそれぞれ荘官に任じて神領を奉行させたと言われており、この小柳生がのちの柳生で、永家の末がこの地を領し、庄名をとって柳生と名乗ったと言います。ちなみに、大膳永家の本姓は菅原氏であったと伝えられ菅原永家となっています。 
その菅原永家が藤間家の家祖であるとされていますが、藤間家の佐久間氏にお伺いしたところ
系図では長道となっているとのことです。
何れにしろ北郷グループとして藤間家も摂関家より任命された家柄である由緒を
示しているわけです。


 

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今回アカダマ会で春日の社家について取り上げたのは
現在春日の禰宜家である藤間家の親族である佐久間氏の手によって
高畑トラストが立ち上げられ、奈良県・春日大社も協力して
藤間家住宅の修復プロジェクトが進行中だからです。
藤間家住宅の建築的特徴と歴史的価値については
東京理科大工学部建築学科教授の伊藤裕久教授の手によって
同家に残された幕末から明治期の古文書・資料の調査は
奈良大学名誉教授の西山要一教授によって、さらに当家の在する
高畑町の景観については京都大人間・環境学研究科の増井教授研究室の村上氏
の手によってと各分野の専門家の手によって多角的に調査が進められています。

現在覆い屋がかけられた藤間家の外観。
築地塀と右側に表門(薬医門)がみえる。その中に見える木は
神木である高野槇。
  
傷みの目立つ屋根瓦。

内部表座敷の床の間。

春日の社家について一応おさらいです。
一般に社家とはその神社に代々奉職する家という意味で使われます。
春日社に限っては少し違って、社家とは鹿島から神に従って奈良に
お供してきた中臣の時風・秀行の兄弟を始祖とする、辰市・大東の両家。
鎌倉時代に若宮社が創建された時に辰市家から分離して若宮神主となった千鳥家。
さらに後に神祇官から春日の常勤の神主に任命された大中臣氏の中東家。
この3惣官とその別れのみを社家と称しています。
多少の増減を経て幕末には19家が存続していました。
名前を次にあげておきます。

 

中臣社家として 十一家

 辰市若狭守祐愛・辰巳出雲守祐淳・大西伊勢守延弘・今西豊後守祐彦・
辰市大隅守祐斐・大東安芸守延慶・富田大和守光美・南丹後守祐之・
東地井美濃守祐親・千鳥近江守祐順・井原筑前守祐門

大中臣社家 八家

 向井越前守師潔・西丹波守師香・中肥前守時教・中西筑前守時敬
・正真院相模守経利・奥甲斐守経貞 中東摂津守時庸・奥田土佐守成季 

このように、辰市・大東・千鳥・中東という名前が明治に至るまでみられます。

禰宜家については次回に書きます。

「天理軽便鉄道」の画像検索結果
  
  
   今回のアカダマ会のテーマは天理軽便鉄道という聞きなれない鉄道についてでした。
正直鉄道にはあまり興味がなかったのですが、今回の話を聞いて興味が出てきました。

 天理軽便鉄道とは明治末天理教の大祭や勤労奉仕に参加する人が
急増するとともに創設された法隆寺と天理間を結ぶ鉄道です。

上の地図にある近鉄橿原線は開業当時まだありません。
そこで他府県から天理に来る人は当時の国鉄で奈良まで来て
奈良からは桜井線の乗り換えるルートしかありませんでした。
ところが多くの人は法隆寺駅から約2里の道のりを歩いたそうです。
そこに目をつけて天理への参拝者を運ぶ鉄道としてこの天理軽便鉄道が
創設されました。
この鉄道を利用すれば奈良回りより時間も運賃も節約されるというのが
セールスポイントでした。
開設は大正4年(1915)のことです。
この時天理という駅名が採用され(当初は新丹波市駅)
それまでは丹波市という名称で呼ばれていましたが
天理という名前が地名として採用されたのはこれが歴史上最初とのことです。
軽便鉄道というのは、一応鉄道のレール幅が広軌の1,435mm、
狭軌の1、067㎜に対して、762㎜という特殊狭軌を採用している鉄道
を指すそうです。
因みに日本で最初に鉄道を導入した時、英国の仕様に合わせフィートで
表示したためメートルではこんな数字になっているとのこと。

こうして発足した鉄道でしたが、経営は不振でした。
その原因は
 1、乗客が往復乘らず、帰りは奈良観光のため桜井線を利用するため 
   片道利用が大半だったこと。
 2、大正3年には大阪電気鉄道(現近鉄)が開通して、運賃、時間のメリットが
   なくなった。
こうして、結局大正10年には天理軽便鉄道は大軌に吸収されてしまいます。
その後、大正11年には畝傍線郡山~平端間が開業、同時に平端~天理間は電化され、
新法隆寺~平端間はそのままでしばらく営業を続けましたが、昭和27年には
廃止されてしまいます。
ミニ鉄道の線路跡『天理軽便鉄道 木戸池築堤』@安堵町


  
「天理軽便鉄道」の画像検索結果
こうして、天理軽便鉄道は歴史の中に埋没し
今や幻の鉄道となってしまったというわけです。
上の写真はその軽便鉄道の名残の木戸池築堤、線路の後です。
平成27年には安堵町の指定有形文化財となりました。

天理軽便鉄道や、特殊狭軌、そして廃線となった法隆寺~平端間。
すべてが初めて聞く話で大変興味深いものでした。
元興寺文化財研究所の副所長狭川氏による「元興寺ゆかりの地名」
という3回シリーズで2回が座学、最終回が実地研修と言う講座に
参加しています。

広い意味での奈良町は江戸時代に奈良町奉行所に管轄された旧奈良市内。

北は1条通り南は京終、東は東大寺から教育大へ延びる東大路まで
西は現在のJR奈良駅あたりまでぐらいを指しますが、狭い意味では
元興寺の衰亡と共にその旧境内地に自然発生的に発達した町並みを指します。
従ってその町名に多く元興寺のゆかりの名前を残しています。
 
奈良町の町名に関しては、古くは『奈良坊目拙解』が詳しいですが、
現在の著作では山田熊夫氏の『奈良町風土記』が奈良市全域を網羅して
 います。
今回の講座も『奈良坊目拙解』から多く引用されています。
 
  
この講座を聞いてふと思いだしたのは昔、町のお年寄りに聞いた
 奈良町には七小路、七御門の町名があるという話です。

 そこで早速現在の地図で調べてみました。
小路では草小路、林小路、今小路が、
そして御門では高御門、下御門、今御門、西御門、中御門の町名が見つかりました。
 これでは、小路は三小路、御門は五御門しかありません。

さらに江戸時代の地図で調べてみると、さらに小路で、北小路、押小路が
見つかりましたが、これでもまだ足りません。

御門の内、高御門、下御門、今御門は元興寺の門に由来の町名です。
下御門は元興寺の西北大門のあった場所、今御門は元興寺北大門。
高御門は元興寺西南大門に由来します。

 西御門は興福寺の西大門に由来する町名です。
中御門は東大寺の俗称焼け門に由来します。
後一つ東御門は『習見聴諺集』「南都興福寺七郷」の中にその名前を見つけました。

南都七郷
 南大門郷、新薬師寺郷、東御門郷、北御門郷、穴口郷、西御門郷、不開門郷

この中の東御門郷〈金堂郷)
南院、中村、登大路、東里、芝、西野田、東野田、北野田、重持院で構成されています。
野田は現在の県公開堂園地あたりを指し場所から東大寺の門ゆかりだと思われます。
さらに東大寺郷の中に
転害、今小路、宮住、中御門、押上、南院(水門)北御門、今在家と
北御門の名前を見つけました


以上で七御門は無事見つかりました。
高御門、下御門、今御門、西御門、東御門、中御門、北御門

後は小路です。
ご存知のように平城京は4町(約500m)ごとに大路を東西南北に設け
その間にさらに3筋の道を縦横に作ってこれを小路と呼びましたが、
現在の地名の小路はそれとはかかわりは少ないと思われます。
さて後3つの小路はこれも南都七郷の中、北御門郷に上北小路、下北小路。
大乗院門跡郷の中、本郷に辰巳小路という名前があり。
草小路、林小路、今小路、押小路、辰巳小路、そして上、下の北小路ということで
なんとか七小路がそろいました。
郷は鎌倉時代の中頃には成立していて、七郷の中に含まれる町名も
鎌倉時代には成立していたと思われます。

果たしてこれで昔から言われるとされる
七小路、七御門と合致してるのか定かではありませんが、数はそろいました。

以上、もしこのことで他にご存知の方があれば教えていただければ幸いです。
2月10日に表記の研究発表会が奈良大学の教室で開催されました。

主催は学友会の近畿支部で初の試みです。
参加者は奈良大学歴史文化財学科通信教育部の休学者を含む全員で、
大学の全面的なバックアップを得て開催されました。
当日は通信のスクーリングも行われていたので、現役の学生の参加もあり
参加者も予想以上に多く盛り上がりました。
発表会後は恒例?の飲み会兼反省会も開かれ遅くまで楽しい時間でした。
私も発表者の一人として手を挙げて参加したのですが、卒業して早6年。
私の卒業論文のテーマである春日大社の成立に関する諸問題について、
卒業してからも引き続き勉強を続けてはいましたが、実際のところ時に、
こうして勉強して一体どうするつもりなのか自問自答ときもあり、
こうした機会を今回も設け受てくださった学友会の近畿支部の役員の
皆さんには感謝です。
ただ持ち時間が30分と限られていた為、
論点を挙げる程度で時間が過ぎるだろうと
高をくくっていて、挙句は発表内容については反省ばかりです。
しかし、こういう機会があってこその貴重な体験で
今後、きっとこの体験は貴重なものとなりそうです。

論点は多くは上げずただ1点。
何故鹿島から来られた神が安倍山を経由されたか?
伝承は虚実を入り混ぜたものですから、安倍山に最初に立ち寄った話が
果たして真実かどうか疑問はもちろんありますが、
もし事実でないなら、なぜわざわざ安倍山に立ち寄った話を
入れなければならないのか?
三重の名張から、山越えで大和に入った先が、
たまたま桜井であったというだけでは説明がつきません。
安倍山に立ち寄ったのはそれなりの理由があるはず。

これが今回の話しのテーマでした。
調べていく過程で安倍氏について見逃せない事実がいくつかわかりました。
それは藤原氏のj始祖である鎌足と安倍氏の関係です。

もう一つが鹿島のタケミカヅチの神と安倍氏の関係。
正直十分に話せませんでしたが、それは私の準備不足も含め
私自身がまだ整理がついていないからです。

今日からまた論点の整理を始め、いつかこのブログで発表できたらと思います。

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奈良市にあった喫茶店『可否茶座 アカダマ』の元マスター.
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