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法華寺に祀られている維摩居士像が新たに国宝に指定されたとのことです。
 11日にソムリエアカダマ会の例会がありましたが、そのテーマは春日大社。

内容についてはまた後日書きたいと思いますが、実はこの維摩居士像は
その春日大社にかかわりの深い藤原不比等の姿を映したものという説もあり
  鎌足から不比等そして光明皇后へと藤原氏の中で代々受け継がれてきた
 藤原氏にとって大切な維摩会を行うにあたっての重要な像です。

従来この像は木心乾漆像と考えられていましたが、イタリアで行われた
「日本仏像展」に出品するため改めて調査を行ったところ、
造立方法が木造と訂正され、結果制作年代が8世紀後半と訂正されました。

維摩会については『今昔物語』で次のような由来が記されています。

昔鎌足が長い病に臥せっていた時、百済の尼僧にその病気を治すには
維摩居士の像を作ってその前で維摩経を読めばよいと教えられました。
鎌足は早速屋敷にお堂を立て維摩居士像を祀りその尼僧を講師として
門失品の講義をしたところたちまち、病が回復したとのことです。

翌年から毎年維摩会を行い鎌足の死後も続けられていましたが、
やがて年月とともに維摩会が行われなくなっていましたが、
不比等が手の病にかかったとき,親の代の行っていたその法会を怠った祟り
とわかり、山階の陶原の家で維摩会を再興しそれ以来場所は
奈良に移った山階寺と呼ばれる興福寺で承和元年(834)から続けられているとあります。
ただし『扶桑略記』では延暦21年(802)10月の条に
「維摩会は本のごとく興福寺にて行い、永く移転世ざれ」という記事があり、
ずれがあります。
維摩会が興福寺で行われたという点では『続日本記』天平宝字元年(757)閏8月7日
藤原仲麻呂の上表文に記載があり、確実なものです。
また一方「興福寺縁起」には維摩会養老4年(720)年に不比等が死んでから
しばらくおろそかにされていたが天平5年(733)に
光明皇后によって再興されたとあります。
その場所はおそらく皇后宮のおかれた法華寺と考えられます。
皇后宮から興福寺へとその行われる場所が変わったわけですがその時期については
はっきりわかりませんが仲麻呂の上表文によって天平宝字元年(757)には
興福寺で行われていたことは確実です。

12c末に書かれた『健久御巡礼記』の法華寺の条に
「維摩会は法華寺の金堂で行われていたが、
場所が狭いとのことで興福寺に移し行われるようになった。
その後維摩像は当初西向きに据えられていたが興福寺のある
辰巳(東南)の方に向いて興福寺を恋たまえり。
あわれなることなり」とあります。

鎌足の命日に合わせ行われる維摩会は氏寺たる興福寺で行われるのは当然としても、
この維摩像が何故法華寺に取り残されたのかは謎です。

想像をたくましくすれば、父聖武天皇、母光明皇后をなくし、
信頼していた仲麻呂も失った孝謙女帝が、祖父不比等を映したといわれる
この維摩像を手元に置き心のよすがにしていたのかもしれません。

晩年の孝謙天皇は女官の由利只一人を、手元に置き、他のものを一切寄せ付けず
法華寺に籠っていたと言われています。
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