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もう年なのであまり間口は広げず最近は春日大社周辺に集中しています。
社家について調べていくうちに、その根本である藤原氏について
もう一度調べてみることにしました。
千年の名門貴族である藤原氏のルーツは、はっきりしています。

藤原氏の始祖である鎌足は天智天皇8年10月16日に
56年の生涯を閉じました。

『日本書紀』によれば、鎌足の病中にに天智天皇は
3度にわたって詔を発しています。

その最初は10日で病床にあった鎌足を見舞った天智天皇が

「何か望むことはないか」と声ををかけます。

 

「天道、仁を輔くること、何ぞ乃ち虚説なしとも、善を積みて余の慶あること、
 猶、是微无からんか、「若し須める所有らば,便ち以て聞くべし」

それに対し鎌足は答えて 
  

「臣、既に不敏、当にまた何をか云わん、但し其の葬事は宜しく軽易を
用うべし、生きては則ち軍国に務なし、死しては則ち何ぞ重ねて難さん」

天皇、国家に対して臣下として、責務を十分に果たせなかったから、
あるいは、益無しであったから、葬儀は簡素にして欲しいと言います。
この「軍国に務なし」で使われている国という概念、
 軍という言葉という言葉は耳慣れない言葉で解釈も
 わかれるところですが、ここではあまり深入りはしません。

更に15日に東宮大皇弟大海人皇子を遣わして


「大織冠と大臣の位とを授く。仍りて姓を賜いて藤原氏とす。

 

翌16日辛酉に藤原内大臣薨せぬ。」
最初の10日の詔は、天皇が鎌足を見舞って枕もとで口頭で発したと思えます。
この15日はおそらく文書と思われます。

さらに甲子(19日)に天皇大錦上蘇我赤兄に命恩詔を奉宣ふ。
仍、金の香鑢を給ふ。とありますが
この詔は日本書紀には記されておらず、『家伝』にあります。

(はる)かに前代を思うに、執政の臣は、時々世々一・二に非るのみ,
而るに労を計り、能を校べるに公に比ぶれば足らず、但、
朕は汝の身を寵するのみに非ず、後嗣の帝王、実に汝の子孫を恵み、
忘れず遺れず、広く厚く酬答せん,頃、病重しと聞く、
朕の意ますます軫む、汝の得べきの任を
作らん」


こうして鎌足の死に当たって天智天皇は鎌足に藤原という姓を与え、さらに
後嗣の帝王、実に汝の子孫を恵み、忘れず遺れず、広く厚く酬答せん」
と藤原氏の子孫に対してまでの厚遇を約束し、
ここに藤原氏と天皇家の結びつきは、天智天皇、更に大海人皇子(のちの天武天皇)
更に官僚のトップである蘇我赤兄を証人として確約されたわけです。
この子孫に対する約束は100年後の称徳天皇によって
藤原永手の右大臣就任に当たって「志乃比己止(しのびこと)の書)
」として再確認されます。
こうして藤原という名前が鎌足に授与されましたが、
鎌足はその2日後に亡くなります。
鎌足が藤原鎌足であったのはわずか2日間のみです。
そこでこの名前がその後どうなったかが問題です。

 


 

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