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さて鎌足が亡くなった時、後継者は11歳の不比等ただ一人という
心細い状態でした。
子の不比等が直ちに父の地位を占めることは到底できません。
藤原の名前を継ぐ前に、中臣氏の宗家の問題があります。
中臣の宗家は鎌足であったことは、まず間違いありません。
この場合宗家というのは中臣という氏族の代表と考えもらったらよいと思います。
鎌足の死後、取り敢えず中臣の宗家は中臣 金 が継いだと思われます。
金は鎌足の父御食子の兄弟、糠手子の子供です。
金は天智天皇10年(671)右大臣に任命されています。
ところがその金は壬申の乱で大友皇子方となり、結果斬され、
子供も流されてしまい、ここで中臣宗家の適任者がいなくなります。
この時不比等は14歳。まだ後継者とはなりえません。
鎌足の父、御食子のもう一人の兄弟、国子の子、国足は『日本書紀』には
1回も顔を出さず、天武天皇14年ごろまでに亡くなっていたと考えられます。
その子意美麿は鎌足没時には確実に健在でした。
そこで、尊卑分脈第4編「中臣氏系図」に
「大職冠の猶子と為り、不比等以前に家業を相続す」
大鏡第5巻には「おとどのもとの太郎をば、中臣意美麻呂とて、
宰相までなりたまえり」とあります。
不比等が幼年故、意美麻呂が猶子となったとする考え方ですが、
だとすると不比等よりかなり年上であることが条件となり、
意美麻呂の年齢が問題となります。
和銅4年(711)に卒去したことは、わかっていますが生年は不明です。
不比等より9年早く亡くなっているからと言って、年長であったとは言い切れません。
そこで、年齢推定できる資料として、意美麿が初めて記録に現れるのが
朱鳥元年10月(681)大津皇子謀反事件に関しての記事です。
大舎人中臣朝臣臣麻呂として連座として名前が出てきます。
一般に大舎人は21歳から仕えるものですので、この時
意美麿もそれぐらいの年齢であったと思われます。
そして次に判事として任官するのが持統天皇3年(689)。
大舎人は通常8年務めたのち任官するもので、ここから推定される
年齢はこの時29歳ぐらいと考えて間違いないと思えます。
であるとすれば不比等と同じくらいかもしくは数歳年下となります。
是では、不比等が幼年であったから、意美麿が取りあえず鎌足の
猶子と為ったという大鏡の記事の信憑性が疑わしくなります。
心細い状態でした。
子の不比等が直ちに父の地位を占めることは到底できません。
藤原の名前を継ぐ前に、中臣氏の宗家の問題があります。
中臣の宗家は鎌足であったことは、まず間違いありません。
この場合宗家というのは中臣という氏族の代表と考えもらったらよいと思います。
鎌足の死後、取り敢えず中臣の宗家は中臣 金 が継いだと思われます。
金は鎌足の父御食子の兄弟、糠手子の子供です。
金は天智天皇10年(671)右大臣に任命されています。
ところがその金は壬申の乱で大友皇子方となり、結果斬され、
子供も流されてしまい、ここで中臣宗家の適任者がいなくなります。
この時不比等は14歳。まだ後継者とはなりえません。
鎌足の父、御食子のもう一人の兄弟、国子の子、国足は『日本書紀』には
1回も顔を出さず、天武天皇14年ごろまでに亡くなっていたと考えられます。
その子意美麿は鎌足没時には確実に健在でした。
そこで、尊卑分脈第4編「中臣氏系図」に
「大職冠の猶子と為り、不比等以前に家業を相続す」
大鏡第5巻には「おとどのもとの太郎をば、中臣意美麻呂とて、
宰相までなりたまえり」とあります。
不比等が幼年故、意美麻呂が猶子となったとする考え方ですが、
だとすると不比等よりかなり年上であることが条件となり、
意美麻呂の年齢が問題となります。
和銅4年(711)に卒去したことは、わかっていますが生年は不明です。
不比等より9年早く亡くなっているからと言って、年長であったとは言い切れません。
そこで、年齢推定できる資料として、意美麿が初めて記録に現れるのが
朱鳥元年10月(681)大津皇子謀反事件に関しての記事です。
大舎人中臣朝臣臣麻呂として連座として名前が出てきます。
一般に大舎人は21歳から仕えるものですので、この時
意美麿もそれぐらいの年齢であったと思われます。
そして次に判事として任官するのが持統天皇3年(689)。
大舎人は通常8年務めたのち任官するもので、ここから推定される
年齢はこの時29歳ぐらいと考えて間違いないと思えます。
であるとすれば不比等と同じくらいかもしくは数歳年下となります。
是では、不比等が幼年であったから、意美麿が取りあえず鎌足の
猶子と為ったという大鏡の記事の信憑性が疑わしくなります。
そこで次に壬申の乱で処刑された中臣金の弟、許米、
その子大島の存在がクローズアップされます。
大島は天武天皇10年(681)の記事に大山上中臣連大嶋として名前があり、
さらに同年大山上(正6位相当)から小錦下(従5位相当)に進みます。
持統天皇4年正月1日即位の折「神祇伯中臣大島朝臣」として
「天神寿詩」を読み上げたとあります。養老令によれば
天皇践祚に際して
「凡そ践祚の日、中臣、天神の寿詩を奏せよ、忌部、神爾の鏡・剣を上れ」
と定められており、このことから大嶋が中臣氏の
家職を継いでいたであろうことが分かります。
そこで、次にでは、藤原の名はどうなったかが当然問題となりますが
このことについてはまた改めて書きます。
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