category:From マスター
さて前回まで、鎌足の死の後の中臣氏の後継者のついて書きました。
鎌足の後継者は不比等ただ一人です。
その時、不比等は11歳。まだ氏族を率いるには若すぎました。
それでは鎌足亡き後、藤原の姓はどうなったか?
不比等が史書の中で再登場するのは鎌足の死後20年を経た。
持統天皇3年(689)3月26日。
この日に不比等は直広四藤原朝臣史として他8名と共に判事に任命されます。
不比等31歳のことです。
その間不比等はどうしていたかは不明です。
『尊卑分脈』「不比等伝」にこんな記事があります。
「公避くる所の事有り、便ち山科の田辺史大隅等の家に養わる、其れを以て
「史」と名づくなり、母は車持国子の娘、与志古娘なり」
この避くる事に関してはいろいろな説があります。
一つは壬申の乱です。
鎌足亡き後の中臣氏の氏の上である金は近江方として斬殺されます。
一族である不比等にも厄災が降りかかる恐れがあったから身を隠したという説。
この時不比等14歳。
田辺大隅という人物は記録がありません。
ただ田辺小隅という人物は存在し、近江方の別将で、近江方敗北の後消息不明になっています。
この人物と大隅が同一かどうか不明です。
先の記事では大隅等、と書かれています。大隅とほかのだれかです。
他に不比等の出生に関して、鎌足の実子ではなく皇胤説もあります。
男なら鎌足の子とせよ」と言われたという内容です。
不比等を天智天皇の子とする説は、『帝王編年記』『公家補任』も記載があります。
これらの説の真偽は不明ですが、不比等の母が車持夫人であることは、
まず間違いなく、こうした内容はあまり信頼できません。
『日本書紀』は公式の記録ですから、不比等といえども、公事に関与がなければ
載せないという解釈で良いと私は思います。
大舎人として仕え始めるのが普通21歳からですから、
この20年の前半は不比等ははまだ位階の授与任官することもなく、
中臣連史として過ごしていたと思います。
天武天皇13年(684)新しい姓の制度「八色の姓」が施行されます。
(真人、朝臣、宿祢、忌寸、道師、臣、連、稲置)
この時朝臣は52氏に賜姓されましたが、中臣は朝臣と改まりましたが
その中に藤原はありませんでした。
鎌足の子供である不比等が任官していたなら、当然この中に藤原姓が含まれるはずです。
この時、不比等は26歳、従って大舎人8年の原則からすれば、まだ大舎人
であったと思われます。
ですから不比等はまだ藤原を名乗らず中臣史であったと考えられます。
ところが、中臣氏の氏上であったと思われる中臣大嶋が、翌年、藤原朝臣大嶋として、
記録に現れます。
天武天皇13年11月1日の朝臣姓授与から翌年9月18日までの間に、
藤原氏に対して追加で朝臣姓が賜姓されたと考えられます。
そしてこの時、記録にはありませんが当然不比等も初めて藤原朝臣を名乗った
と思われます。
持統3年には、大嶋は直大四(従五位相当)不比等は直広四(従五位相当)
臣麻呂は務大四(従七位相当)であったことから、氏の上であったであろう
中臣大嶋から申請があり、改めて藤原氏に朝臣の姓が与えられたと解釈されます。
この時点で藤原朝臣氏は大嶋・不比等の二家であったと思われます。
ところが、持統四年・五年には神祇伯として中臣朝臣大嶋の名前が出てきます。
そして持統七年直大二葛原朝臣大嶋に、賭物を賜るという記事があり、
大嶋がこの時点で亡くなったことが分かりますが、なんと、姓が葛原となっています。
更に同じ年、葛原朝臣臣麻呂に直広四の叙位の記事があります。
葛原はおそらく「ふじわら」と読まれたと思われます。
それは、天平宝字元年(757)に
「今より以後、藤原部を改めて久須波良部(くすはら)と為す。
という記事から推察されます。
この変更は藤原が葛原と表記された事実があったから出されたと考えられます。
以上のことから、
中臣氏は鎌足の祖父方子の三子、御食子・国子・糠手子の兄弟が
中臣の三門に分立していましたが、鎌足の死後藤原の姓の襲名に関して
この中臣氏3門のなかで、鎌足が残した遺産を巡って揉め事があったのではないか
と推察されます。
鎌足の遺産は唯一の子供である不比等が受け継ぐのは当然ですが、
鎌足は中臣氏の氏上であったと考えられ、中臣氏の纏わる遺産に関しては
他の中臣氏も権利を主張したのではないか。
凡そ、広く世間を見ても偉大な創業者の跡を継いだ2代目によって
其の後繁栄が継続するか否かが決まるというのはよく見られる事例です。
ここで2代目である不比等が、他の中臣氏の要求をはねつけ、
朝廷工作の結果、勝ち得たのが 文武天皇二年(698)の詔であったと考えられます。
「藤原朝臣、賜わりしところの姓は、宜しく其の子不比等をして之を
承けしむ、但し意美麿(臣麻呂)等は、神事を供するに縁りて、
宜しく旧姓に復すべし」
この詔は、不比等以外に藤原とか葛原とか名乗る人物がいたから
この詔が出されたということです。
こうして鎌足の死後三〇年にして、不比等が唯一藤原の後継者であることが
この時点でようやく確定します。
この詔の2年前の持統10年初めて直広二藤原不比等(資人50人を賜る)
という記事があります。不比等38歳です。
恐らく史から不比等への表記の改名はここでなされたと考えられます。
藤原の名は不比等以外の中臣氏のだれもが「ならべてならず」「ならびひとしからず」
ただ一人不比等のものという意味です。
天智天皇の鎌足への誄は、唯一の後継者である不比等の独占するところのもの
であることを名前で示しているというわけです。
藤原氏の以後の繁栄はこのブログの役割ではないので割愛しますが、
わずか2日間だけ藤原鎌足を名乗った鎌足ではなく、
以後の藤原氏の基は不比等から始まりました。
鎌足の後継者は不比等ただ一人です。
その時、不比等は11歳。まだ氏族を率いるには若すぎました。
それでは鎌足亡き後、藤原の姓はどうなったか?
不比等が史書の中で再登場するのは鎌足の死後20年を経た。
持統天皇3年(689)3月26日。
この日に不比等は直広四藤原朝臣史として他8名と共に判事に任命されます。
不比等31歳のことです。
その間不比等はどうしていたかは不明です。
『尊卑分脈』「不比等伝」にこんな記事があります。
「公避くる所の事有り、便ち山科の田辺史大隅等の家に養わる、其れを以て
「史」と名づくなり、母は車持国子の娘、与志古娘なり」
この避くる事に関してはいろいろな説があります。
一つは壬申の乱です。
鎌足亡き後の中臣氏の氏の上である金は近江方として斬殺されます。
一族である不比等にも厄災が降りかかる恐れがあったから身を隠したという説。
この時不比等14歳。
田辺大隅という人物は記録がありません。
ただ田辺小隅という人物は存在し、近江方の別将で、近江方敗北の後消息不明になっています。
この人物と大隅が同一かどうか不明です。
先の記事では大隅等、と書かれています。大隅とほかのだれかです。
他に不比等の出生に関して、鎌足の実子ではなく皇胤説もあります。
『多武峰略記』『多武峰縁起』(鎌倉時代成立)では
定恵を孝徳天皇の子とする説を載せています。
男なら鎌足の子とせよ」と言われたという内容です。
不比等を天智天皇の子とする説は、『帝王編年記』『公家補任』も記載があります。
これらの説の真偽は不明ですが、不比等の母が車持夫人であることは、
まず間違いなく、こうした内容はあまり信頼できません。
『日本書紀』は公式の記録ですから、不比等といえども、公事に関与がなければ
載せないという解釈で良いと私は思います。
大舎人として仕え始めるのが普通21歳からですから、
この20年の前半は不比等ははまだ位階の授与任官することもなく、
中臣連史として過ごしていたと思います。
天武天皇13年(684)新しい姓の制度「八色の姓」が施行されます。
(真人、朝臣、宿祢、忌寸、道師、臣、連、稲置)
この時朝臣は52氏に賜姓されましたが、中臣は朝臣と改まりましたが
その中に藤原はありませんでした。
鎌足の子供である不比等が任官していたなら、当然この中に藤原姓が含まれるはずです。
この時、不比等は26歳、従って大舎人8年の原則からすれば、まだ大舎人
であったと思われます。
ですから不比等はまだ藤原を名乗らず中臣史であったと考えられます。
ところが、中臣氏の氏上であったと思われる中臣大嶋が、翌年、藤原朝臣大嶋として、
記録に現れます。
天武天皇13年11月1日の朝臣姓授与から翌年9月18日までの間に、
藤原氏に対して追加で朝臣姓が賜姓されたと考えられます。
そしてこの時、記録にはありませんが当然不比等も初めて藤原朝臣を名乗った
と思われます。
持統3年には、大嶋は直大四(従五位相当)不比等は直広四(従五位相当)
臣麻呂は務大四(従七位相当)であったことから、氏の上であったであろう
中臣大嶋から申請があり、改めて藤原氏に朝臣の姓が与えられたと解釈されます。
この時点で藤原朝臣氏は大嶋・不比等の二家であったと思われます。
ところが、持統四年・五年には神祇伯として中臣朝臣大嶋の名前が出てきます。
そして持統七年直大二葛原朝臣大嶋に、賭物を賜るという記事があり、
大嶋がこの時点で亡くなったことが分かりますが、なんと、姓が葛原となっています。
更に同じ年、葛原朝臣臣麻呂に直広四の叙位の記事があります。
葛原はおそらく「ふじわら」と読まれたと思われます。
それは、天平宝字元年(757)に
「今より以後、藤原部を改めて久須波良部(くすはら)と為す。
という記事から推察されます。
この変更は藤原が葛原と表記された事実があったから出されたと考えられます。
以上のことから、
中臣氏は鎌足の祖父方子の三子、御食子・国子・糠手子の兄弟が
中臣の三門に分立していましたが、鎌足の死後藤原の姓の襲名に関して
この中臣氏3門のなかで、鎌足が残した遺産を巡って揉め事があったのではないか
と推察されます。
鎌足の遺産は唯一の子供である不比等が受け継ぐのは当然ですが、
鎌足は中臣氏の氏上であったと考えられ、中臣氏の纏わる遺産に関しては
他の中臣氏も権利を主張したのではないか。
凡そ、広く世間を見ても偉大な創業者の跡を継いだ2代目によって
其の後繁栄が継続するか否かが決まるというのはよく見られる事例です。
ここで2代目である不比等が、他の中臣氏の要求をはねつけ、
朝廷工作の結果、勝ち得たのが 文武天皇二年(698)の詔であったと考えられます。
「藤原朝臣、賜わりしところの姓は、宜しく其の子不比等をして之を
承けしむ、但し意美麿(臣麻呂)等は、神事を供するに縁りて、
宜しく旧姓に復すべし」
この詔は、不比等以外に藤原とか葛原とか名乗る人物がいたから
この詔が出されたということです。
こうして鎌足の死後三〇年にして、不比等が唯一藤原の後継者であることが
この時点でようやく確定します。
この詔の2年前の持統10年初めて直広二藤原不比等(資人50人を賜る)
という記事があります。不比等38歳です。
恐らく史から不比等への表記の改名はここでなされたと考えられます。
藤原の名は不比等以外の中臣氏のだれもが「ならべてならず」「ならびひとしからず」
ただ一人不比等のものという意味です。
天智天皇の鎌足への誄は、唯一の後継者である不比等の独占するところのもの
であることを名前で示しているというわけです。
藤原氏の以後の繁栄はこのブログの役割ではないので割愛しますが、
わずか2日間だけ藤原鎌足を名乗った鎌足ではなく、
以後の藤原氏の基は不比等から始まりました。
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