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10月21日に以前から計画していた春日社の足跡を辿り、
桜井の安倍山をアカダマ会で訪ねました。
案内はやはりソムリエで桜井在住のS氏にお願いしました。
当日は折から台風接近も伝えられあいにくの雨、
それにもかかわらず東京からもソムリエのF氏さらに
私の奈良大学の同級生も加わって総勢8名が雨中を出発。

最初におさらいですが、春日大社の祭神は
武甕槌神(常陸国・鹿島の神)・経津主神(下総国・香取の神)
天児屋根神(河内国・枚岡の神)・同比売神


天児屋根神・比売神は中臣氏の祖神とされ中臣氏・藤原氏の氏神である春日大社に
お祀りされるのは当然ですが、なぜ鹿島から武甕槌。香取から経津神が
招かれているのかについては諸説あり定説はありません。

その中で有力な説が3あります。

一つは鎌足が鹿島の出身であるという説です。
これは一般的に大変分かりやすい理由であり受け入れやすい説であることから
平安時代に書かれた「大鏡」にもそのように書かれ、鹿島には鎌足神社すらありますが、
残念ながらこれを肯定する史料的な裏付けはありません。

二つ目は中臣氏系図に初代と比定される中臣黒田が鹿島出身であるという説。
仏教導入を巡る争いの中で中臣本宗家が滅び代わりに鹿島出身の黒田が
本宗家を継いだということです。
同じく物部氏もこの争いの中で本宗家の交代があり、支族である石上氏が本宗家を
継いでいますから説得力はありますが、これも確実な裏付けとなる資料がありません。

三つ目は

 

不比等の子宇合は養老3年(719)安房・上総・下総の三国を
管する按察使であり、同時に常陸守でもあった宇合は
陸奥国の海道蝦夷の持節大将軍としてタケミカヅチの神を
従軍神として帯同しこれを平定したとあります。
これにより宇合は奈良に在っても鹿島の神を厚く敬いお祀りをし、
その死後は同じく藤原氏の娘である光明皇后が鹿島の神を引き続き
皇后宮でお祀り、されには光明皇后が亡くなった後
その娘である称徳天皇が皇后宮で祀られていたそれらの
神々を春日大社にお遷ししたという説です。
この説に関しては、直接裏付けられる資料こそありませんが、
この説を支持する傍証がいくつかあり、かなり有力な説です。
 
 
以上のように鹿島・香取の神が春日大社に祀られる理由は
定かではありませんが、今回の見学会の目的は
 春日の社家である大東家に伝わる『古社記』に書かれているように
鹿島・香取の神が春日社の創設にあたって鹿の背に乗ってはるばる奈良の地に入り、
まず足跡を記したとされる安倍山を訪ねることにあります。


『古社記』

 

「常陸の国のお住まいより三笠山に移りますの間、鹿を以って御馬となし、
柿の木の枝を以って、鞭として御出あり。

 

 

先ず神護景雲元年六月二十一日伊賀の国名張郡夏身郷に来着す。

一の瀬という河にて沐浴しおはしますの間、鞭を以ってしるしとなし、
くだんの河辺に立ち給う。
則樹となりて生付きおはんぬ。
そこより立ちて、同国のこものふ山に渡りおはす。数か月居御す。

その時時風、秀行等に焼き栗を各々一つ給ひてのたまう。
「汝等子孫に到るまで、断絶なく我につかうべくんば、
その栗植うるに必ず生付くべし。」


よって仰せに従いて植うるに、すなわち生付きぬ御わんぬ。
是より始めて中臣の植栗連ともうす。

同年十二月七日大和の国磯上郡安部山の御座す。」



最初にこの中臣の植栗連ゆかりの神社を訪れました。
今回のガイド役S氏が我々を案内してくださったのが
十ノ森神社。

S氏によれば、今は上の庄集落の南西端にある植栗神社は
明治7(1874)までは三十八社神社と呼ばれ
十の森にあった春日神社を合祀(移転)したものでその際に名まえも
植栗神社と改められた可能性があるとのこと。
十ノ森は上つ道に接し付近には字、江繰(えぐり)も残されている。

この「くり」という言葉はキイワードでもあります。

鹿島からお供してきた中臣時風。秀行が道中植栗という名を神よりいただき
春日社の社家の始まりとなるわけですが、植栗神社の祭神は植栗王とされます。
続記に和銅2年(708)従七位下植栗物部名代に植栗連の姓を賜うとあり、
植栗連大中臣同祖と『姓氏録』にあります。
『神名帳考証』は用明天皇第三皇子植栗皇子とされて、
鹿島からお供してきたとされる植栗連との関連は不明です。
さらには
中臣殖栗連「続日本記』天平十一年(七三九)正月一三日条
「无位中臣殖栗連豊日を従五位上に叙す。」

という記事があり、768年以前に植栗連が存在したという記事が散見されます。
 『古社記』の記事によれば鹿島から神が御動座される途中に
賜ったはずの植栗連という姓のはずですが、それ以前にこうして登場しており、
 社伝との整合性についはさらなる研究が必要です。
 
  
これが十の森神社で由来を聞かなければ
全く注意をひかなかったことでしょう。
 
次にここより雨の中徒歩で10分ほど歩いて、
上の庄の集落にある植栗神社へ移動しました。
境内には東より入り社殿は南面しています。その社殿の右奥に土塀に囲まれた
春日社があります。

    

この植栗神社の存在が『古社記』の記述を裏付けるものなのか
判断は難しいところです。

ここから雨の中30分ほどひたすら安倍地区を歩き、
次に
今回の最大の目的地である阿部山へと向かいます。

そこで、ガイドのS氏がここに上りましょうといきなり登り始めたのが
なんと墓地。

この丘陵は墓地のために造成されたのではなく自然の丘陵の上に築かれたもので
形状はかなり周りを削られて変わっていますが実はこの小高い丘こそ
条里図にある神宮山(しんぐりやま)なのでした。

その上からは周囲が見渡せ、目の前には安倍文殊院の森があり、
南には安倍寺跡、はるかに畝傍山も見えます。
まさにこの辺り一帯が安倍山。
現地に来るまでは、私は安倍山と言う小高い丘があるものと
思っていましたが、独立した安倍山という山はないということ。
やはり現地に来なければわからないものです。

この丘を降りたすぐに、やはり条里図に書かれた字榎本、3本柿があります。

これが榎本・3本柿の字名を持つ土地ですが、案内がなければ
気にも留めなかったことでしょう。
「古社記」に謂う安倍山、そして鹿島神宮を伺わせる神宮山、
読み方がしんぐりと、ここでも栗が出てきて、字榎本、柿。
この場所こそ、鹿島の神が最初に到着されたと言われる場所なのでしょうか?
伝承が有名になれば逆に後付で命名されるケースもままありますが、
平城旧跡で土地の人が長らくダイコクの芝と呼んでいた場所が後に
大極殿跡だと確認されたように伝承名を決して軽んじてはいけません。
この土地の前を走る道の西は安倍文殊院。東は藤原宮大極殿跡。
安倍文殊院の場所も安倍山。
さらにこの辺り一帯は古代の宮が多く築かれた磐余の地。
神武天皇もその名にカムヤマトイワレヒコと、イワレを含み
更に鎌足の祖父も中臣磐余とその名に磐余があり、藤原宮は
その名前は土地名が藤原であることから来ており、
その近くは藤原一族ゆかりの大原の地。
そしてこの辺り一帯は安倍氏ゆかりの土地。
御蓋山と、安倍山の土地交換の話。榎本神社。
まさに妄想は広がるばかりです。

帰り道は長門池、石寸山口神社、土舞台を経て、磐余若櫻神社を
雨中訪ね回りました。

 

今回磐余の地を訪ね春日大社の創建に対し果てしなく想像は膨らみますが、
この地に立てたことが今回の最大の収穫でした。
そして桜井駅に到着する前、この地区の人達が奉納した市街地に立つ珍しい
勧請綱をくぐって解散となりました。
台風の近づく中、皆無事に歩きとおし、実に有意義な一日でした
雨の中熱心にガイドをして頂いたS氏には本当に感謝です。




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